歴史の勉強

譜代大名で挙母藩主となった三宅康貞の祖は、古代の三宅連の末裔である児島高徳であるとする。
三宅氏が三河国にその名を記すのは、猿投神社の棟札に三宅筑前守家次という名があるのがもっとも古いものとされるが、この人物は三宅家の家譜上確認できず、おそらく三宅筑後守貞次ではないかとされる。
三宅氏は足助地方にもその勢力を広めたらしいが、やがて松平元康が三河を統一すると、当主の三宅正貞もその家臣となった。
正貞の子が康貞であり、康貞は慶長9年(1604年)に長年の功により挙母藩主となり、その曾孫の康勝が三河田原に転封となる。
三宅氏は1万2千石の小大名であったが、城主であり格式が高く、反面それが財政窮乏の原因となった。
なお、江戸藩邸は現在の最高裁判所の位置で、その一帯を三宅坂というのは三宅氏に由来している。

大名騒動録・田原藩の騒動のページ

三宅康貞 みやけやすさだ
1544~1615(天文13~元和元)、幼名惣右衛門
三河挙母1万石

三河国加茂郡梅坪城主三宅正貞の長男として生まれ、父正貞とともに松平元康(徳川家康)に仕える。
鳥居元忠のもとに属して掛川城攻め、姉川合戦、長篠の戦い、高天神城攻め、小牧・長久手の戦いなどに参陣して功を積み、天正18年(1590年)の家康の関東移封の際には武蔵瓶尻で5千石を与えられた。
関ヶ原役では遠江横須賀城を守備し、慶長9年(1604年)に5千石を加増されて諸侯に列し、三河挙母藩主となる。
挙母は荒廃していたために新城を築城し、慶長19年(1614年)に完成し、城内には祖とする児島高徳を祀った。
大坂冬の陣では駿府城番、夏の陣では淀城番を勤め、大坂の陣直後の元和元年10月23日に72歳で死去した。

三宅康信 みやけやすのぶ
1563~1632(永禄6~寛永9)、従五位下、越後守
三河挙母1万石→伊勢亀山1万2千石

先代康貞の長男で、天正18年(1590年)の小田原北条氏攻めが初陣。その後関ヶ原役、大坂の陣に父康貞とともに出陣し、元和元年(1615年)父康貞の死により家督を継いだ。
元和5年(1619年)に伊勢亀山に転封となった。翌元和6年の徳川和子の入内に際して、和子を亀山城内で応接し、さらに供奉を勤めて2千石を加増される。
その後も上洛する秀忠や家光を亀山城で応接した。寛永9年9月27日に70歳で卒した。

三宅康盛 みやけやすもり
1600~1657(慶長5~明暦3)、従五位下、大膳亮
伊勢亀山1万2千石→三河挙母1万石2千石

先代康信の長子として生まれ、寛永9年(1632年)父康信の死去により家督を継いだ。寛永13年(1636年)5月に父祖の故地挙母に転封される。封地は三河加茂郡内に7千石、常陸新治郡内に5千石であった
。この転封は寛永11年に将軍家光上洛の際、亀山城内で応接した康盛が家光に父祖の地への復帰を懇願したものとも言われる。
大坂城番、駿府城番などを勤め明暦3年12月29日に58歳で死去。

三宅康勝 みやけやすかつ
1628~1687(寛永5~貞享4)、幼名隼人、従五位下、能登守、土佐守
三河挙母1万石2千石→三河田原1万2千石

先代康盛の嫡子で、明暦3年(1657年)康盛の死去により、翌明暦4年2月27日襲封。寛文4年(1664年)5月9日に三河田原に転封。
寛文8年(1868年)に「庄屋惣百姓心得」を領内に布れた。同年12月に城下町田原で大火。
延宝2年(1674年)に領内野田村と赤羽根村の間に比留輪山論争が発生する。両村の境にある比留輪山の下草刈りの権利を巡る争うであったが、転封後日が浅く事情に暗かったために収拾に失敗し、評定所での裁決となった。
野田村の勝訴となったが、藩の裁決とは逆であり、面目が潰れた田原藩取り潰しにまで話が及ぶも、田原藩前藩主の寺社奉行戸田忠昌の取り成しで治まった。
寛文7年(1867年)、延宝3年(1675年)、延宝6年(1678年)、貞享4年(1687年)と4度大坂加番を勤め、4度目の在番中の貞享4年8月9日に60歳で大坂で死去した。

三宅康雄 みやけやすお
1659~1726(万治2~享保11)、幼名六良太良、従五位下、出羽守、備前守
三河田原1万2千石

先代康勝の長男で、貞享4年(1687年)に父康勝の死去により、29歳で家督を継いだ。はじめ康歓と名乗り、康雄と名を改めたのは元禄7年(1694年)のことである。
各門番、駿府加番、日光祭礼奉行などを勤め、元禄7年11月将軍綱吉の御小姓、元禄12年(1699年)奏者番となった。宝永元年(1704年)10月寺社奉行兼帯となった。
その後、病気の為に宝永7年(1710年)9月に寺社奉行を辞し、そののち各門番を勤めた後、享保11年10月4日に68歳で病没。
康雄の代から田原藩の財政は困窮度を増し、宝永3年(1706年)から家臣の減俸が始まった。その後は町人からの上納や庄屋から借上げ金などで財政難に対処した。

三宅康徳 みやけやすのり
1683~1753(天和3~宝暦3)、幼名勝之助、従五位下、能登守、備後守
三河田原1万2千石

先代康雄の二男で初名を康利という。享保11年(1726年)10月に父康雄が病死し、同年11月26日に家督を継いだ。
享保13年(1728年)に城下の神明社前に目安箱を設けた。同年11月に田原城を大修理。半蔵門、一ツ橋門などの各門番を勤め、延享2年(1745年)8月8日に病気のため家督を嫡子康高に譲り隠居し、宝暦3年12月1日71歳のとき病死した。

三宅康高 みやけやすたか
1710~1791(宝永7~寛政3)、幼名藤太郎、従五位下、備前守
三河田原1万2千石

先代康徳の嫡子で、延享2年(1745年)8月に父康徳が隠居したために36歳で家督を継いだ。
財政難に苦しむ中、延享3年(1746年)9月日光祭礼奉行、同年12月田原城下大火、寛延元年(1748年)5月朝鮮通信使接待などで更に財政は悪化し、度々家臣から引米を行い凌いだ。
宝暦5年(1755年)8月28日に養子康之に家督を譲り隠居した。隠居直後に茶道の南坊流宗匠十世をつぎ、諸大名家の子弟などに茶道を教授し、寛政3年3月14日に江戸にて82歳で没した。

三宅康之 みやけやすゆき
1729~1803(享保14~享和3)、幼名滝五郎、従五位下、出羽守、備後守、対馬守
三河田原1万2千石

先々代康徳の実弟であった豊後府内藩主松平対馬守近貞の二男で、宝暦4年(1754年)4月26日に従兄弟にあたる先代藩主康高の長女於勝と結婚し婿養子になった。翌宝暦5年8月に康高が隠居し家督を継いだ。
安永9年(1780年)11月29日に世子康武に家督を譲り隠居するが、藩主の座にあった25年は財政難との戦いであった。参勤費用にも事欠く有様であたったが、小藩であり土地も痩せていたために財政再建への有効な手段は打てず、家臣からの引米倹約や借金で凌いだ。
寛政8年(1796年)に剃髪して政道と号し、享和3年8月9日に75歳で江戸下屋敷で死去。

三宅康武 みやけやすたけ
1763~1785(宝暦13~天明5)、幼名久熊、従五位下、備前守
三河田原1万2千石

先代康之の四男で兄たちが早世したために世子なった。安永9年(1780年)11月康之の隠居によって18歳で家督を継いだ。
藩主の座にあること5年、天明5年9月12日に23歳で江戸にて病死した。5年間は先代同様財政難との戦いであった。

三宅康邦 みやけやすくに
1764~1792(明和元~寛政4)、幼名鎌吉、従五位下、能登守
三河田原1万2千石

先々代康之の五男として生まれ、初名を道弘といった。天明5年(1785年)9月兄康武の急養子となり、同年11月12日に家督を許された。
田原藩の財政難はいよいよ苦しく、康邦の代の寛政元年(1789年)に宝飯郡の竹本長三郎より借りた7千百両あまりの金は返済できずに明治5年まで残った。
康邦は各門番などを勤め、寛政4年2月29日に29歳で江戸にて病死した。

三宅康友 みやけやすとも
1764~1809(宝暦14~文化6)、幼名亀之丞、亀吉、従五位下、備前守、備後守
三河田原1万2千石

四代前の藩主康高の四男で高友と称していた。先代康邦の養子となり、寛政4年(1792年)康邦の死去により家督を相続した。
寛政6年(1794年)五ヵ年厳倹令を発布し、領内八浜の漁猟税請負制を廃して漁獲高課税に切り替えたほか浜辺条目を定めた。
文化6年3月20日大坂城加番中に46歳で病死した。

三宅康和 みやけやすかず
1798~1823(寛政10~文政6)、幼名元吉、従五位下、備中守、対馬守
三河田原1万2千石

先代康友の二男として江戸で生まれ、文化6年(1809年)康友の死去により12歳で家督を継いだ。康和の代も財政難に対処するために、相次ぐ厳倹令の発布や拝借金の連続であった。
各門番を勤めたほかに、文政2年(1819年)に日光祭礼奉行を勤めた。病弱であり文政6年2月8日に26歳で江戸において病没した。

三宅康明 みやけやすてる
1800~1827(寛政12~文政10)、幼名八蔵、従五位下、備前守
三河田原1万2千石

先々代康友の三男で、前藩主康和の弟にあたる。文政6年(1823年)に兄康和の病死により急養子となり、同年7月9日家督相続。
兄同様財政難に苦しんだ。文政8年(1825年)に幕府より異国船打払令が発布され、田原藩でも赤羽根村中村に遠見番所を設けた。
文政10年7月10日に江戸において病死した。

三宅康直 みやけやすなお
1811~1893(文化8~明治26)、幼名稲若、従四位下、土佐守
三河田原1万2千石

姫路藩主酒井忠実の六男として生まれた。先代康明には異母弟友信がいて、康明死去の際には友信を急養子にするのが妥当であったが、財政難のおり持参金つきで姫路藩から稲若を急養子に迎え、友信は病弱につき廃嫡となった。
その後に友信は隠居格として田原藩巣鴨屋敷に住し、また渡辺崋山ら友信側近の訴えによって友信の子を世子とすることを康直は約した。
康直の治世前半は、持参金を折からの田原城下の大火の復興に使い、自らも質素な食事を取るなど倹約し、崋山を家老に登用して義倉である報民倉を設置するなど明君ぶりであった。
しかし後半には奏者番就任を望んで、金を要路に贈るなどして治世を顧みない行いが目立つようになった。崋山は康直を諌めたが、蛮社の獄によって崋山は失脚し、蟄居の身となる。その後、崋山は康直への罪の波及を恐れて天保12年(1841年)10月自刃した。
崋山自刃後の同年12月に康直は念願の奏者番に就任した。幕末が近く、藩内でも西洋筒を鋳造し天保14年(1843年)には波瀬村に台場を築いた。
嘉永2年(1849年)12月に病により奏者番退任、翌3年に軍制を西洋式に改革、同年11月11日に養子康保に家督を譲り隠居、明治26年8月9日に83歳で死去。
なお、崋山自刃の直前に康直には男子が生まれ、崋山の死後に康直はこの男子を世子にしようとしたが、側用人真木定前の諫死により、約したとおりに友信の子の康保を世子とした。

三宅康保 みやけやすよし
1831~1895(天保2~明治28)、幼名しん(人偏に口)太郎、正五位、対馬守、備前守、備後守
三河田原1万2千石

先々代康明の異母弟友信の長男として生まれ、天保3年(1896年)康直の養子となった。初名は「やすもち」と称したが、のちに家茂が将軍となると「やすよし」と改名した。嘉永3年(1850年)11月に養父康直が隠居し家督となった。
戊辰戦争時に康保は江戸にあって官軍への徹底抗戦を主張したが、田原では家老渡辺諧が藩論を勤皇に統一し、慶応4年(1868年)2月の康保の説得に伊藤鳳山が江戸に向った。康保は説得を受けてその後に帰国し官軍に加わった。
明治2年(1869年)の版籍奉還により田原藩知事、同4年の廃藩置県で免職となり、久能山東照宮の宮司などを経て明治28年正月23日に65歳で死去。

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