歴史の勉強

近江浅井郡宮部村の小豪族が宮部氏の出自という。宮部継潤は湯次神社の社僧善浄坊清潤の養子となり比叡山で修行し、故郷に帰り清潤のあとを継ぎ社僧となり善祥坊継潤と称したが、仏事よりも軍事が好きで、その後浅井長政に仕え、さらに織田信長、豊臣秀吉に仕えた。
秀吉の信任が厚く、鳥取城主となり、隠居後は秀吉の御伽衆となり相談相手にもなった。子の長煕が関ヶ原で西軍に属したために戦後領地を没収され、南部家に預けられて大名としては没落した。子孫は南部家に家臣としてに仕えた。

宮部継潤 みやべけいじゅん
1528?〜1599(享禄元?〜慶長4)
→因幡鳥取13万石

宮部継潤というより法名の善祥坊の方が有名である。近江浅井郡宮部村の小豪族であった土肥刑部少輔真舜の子として生まれ、6歳で湯次神社の社僧善浄坊清潤の養子となり、9歳で比叡山に入り修行をする。
その後近江に戻り湯次神社の社僧となるが、仏事より軍事が好きであったらしく、北近江の戦国大名であった浅井長政に仕えた。武勇に優れていたらしく、織田信長との戦いでも活躍したというが。元亀2年(1571年)に秀吉の調略により織田家に降り、そのまま秀吉に仕える。
旧主浅井攻めに活躍したあとも秀吉の陣にあり、その中国攻めにも従い、天正9年(1581年)の鳥取城陥落の後その城代となり因幡の支配にあたる。
本能寺の変後も鳥取にあり、主として因幡支配を行い、天正17年(1589年)に因幡と但馬国内で5万石を得、正式に鳥取城主となった。
九州征伐、小田原攻めにも参陣し加増されたがたが、文禄の役では高齢を理由に子の長煕が参陣、その後慶長元年(1596年)に隠居し、長煕に家督を譲った。
秀吉の信任の厚い継潤は、隠居後も秀吉の御伽衆となり相談相手となったが、秀吉死去の翌年である慶長4年3月25日に、秀吉の後を追うように死去した。

宮部長煕 みやべながひろ
1581?〜1634(天正9?〜寛永11)、兵部少輔、従五位下
因幡鳥取13万石→所領没収

秀吉与力として中国平定の先鋒を勤め、因幡鳥取城主となった宮部継潤の子が長煕で長房ともいう。父継潤とともに秀吉に仕え、天正14年(1586年)従五位下兵部少輔に叙任され豊臣姓を賜った。
文禄の役に出陣し漢城を攻撃、帰国後の慶長元年(1596年)隠居した継潤から、因幡鳥取13万石を相続し鳥取城主となった。
関ヶ原戦では会津討伐軍として東征したが、三河で三成挙兵の報に接すると態度を変え、以後西軍に属す。伏見城攻撃、大津城攻撃に参加したが、大津城攻撃が手間取り本戦には不参加。
本戦後に居城の鳥取城には家老伊吹三左衛門を筆頭に長煕家臣が籠城し、家康は因幡で唯一の東軍武将だった亀井茲矩に鎮圧を命じた。
鳥取城下では激しい戦闘が行われ、城下は焼き払われてしまったという。籠城軍は降伏開城し戦闘は東軍の勝利に終った。
長煕は拘禁され所領は没収、その身は盛岡の南部利直に預けられ、剃髪して長念と号した。その子孫は多賀姓に改め南部家家臣となったが明治に入り宮部に復姓した。
寛永11年11月18日盛岡で没。

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