歴史の勉強

松下氏は宇多源氏佐々木氏庶流で、初め西条と称したが西条氏綱の子の高長永の時に三河国に下り、碧海郡松下に住したことから松下を称したとされる。
之綱のころ遠江国頭陀寺城主となり、今川氏の家臣飯尾氏に仕えていたが、そのころに諸国を流浪していた秀吉が寄食した。太閤記などにも記されている。
この縁で、後年大名となり関ヶ原後も陸奥二本松、陸奥三春で大名として続いたが三代長綱のときに改易された。

松下之綱 まつしたゆきつな
1538〜1598(天文7〜慶長3)、幼名左助、従五位下、石見守
遠江久野1万6千石

松下長則の子で今川氏の家臣飯尾氏に属し、遠江国頭陀寺城主。このころ諸国を流浪していた秀吉が寄食した。
今川氏滅亡後は遠江を領した徳川家康に仕え、さらに秀吉に召し出されてその家臣となる。天正11年(1583年)に丹波・河内・伊勢で3千石、天正15年(1587年)従五位下石見守に叙任し3千石を加増。
天正18年(1590年)遠江久野城主となり1万6千石を領す。慶長3年2月晦日死去。

松下重綱 まつしたしげつな
1579〜1627(天正7〜寛永4)、幼名左助、従五位下、石見守、右兵衛尉
遠江久野1万6千石→常陸小張1万6千石→下野烏山2万石→陸奥二本松5万石

松下之綱の子として遠江で生まれる。慶長3年(1598年)2月之綱死去により家督を継いだが、同年8月に秀吉が死去。関ヶ原では遠江に領地があったために、必然的に東軍に属し会津討伐に参陣し、その後岐阜城攻撃、本戦に参加した。
戦後所領は安堵されたが、慶長8年(1603年)幕府の許可を得ずに居城の石垣を修築したことをとがめられ常陸小張に転封。しかし減封されていないところから、東海道筋に豊臣恩顧の大名が居ることを嫌った側面が強いと考えられる。
大坂の陣では本多忠朝旗下で活躍し、その功で下野烏山に加増転封。
さらに寛永4年(1627年)に陸奥二本松に加増転封。これは重綱の正室が加藤嘉明の女で、加藤家の会津転封に伴う移動であった。これにより加藤嘉明の与力となった。
しかし、転封直後の同年10月2日二本松で死去した。享年 49。

松下長綱 まつしたながつな
1610〜1658(慶長15〜万治元)、従五位下、石見守
陸奥二本松5万石→陸奥三春3万石(改易)

先代長綱の長男。父重綱は陸奥二本松に転封直後に死去、長綱が家督を継いだが、まだ18歳であった。年少との理由で陸奥三春の加藤明利と領地が交換された。
三春の加藤明利は会津の加藤嘉明の二男で、松下氏とともに嘉明の与力大名であった。ただし三春は3万石、二本松は5万石なので、2万石減封であった。
寛永20年(1643年)会津の加藤明成が封地返上という前代未聞の騒動で、会津領が幕府に収公されたが、松下氏には何の処置もなかった。ところが長綱乱心との理由で正保元年(1647年)4月10日突然改易となった。
長綱は正室の実家である土佐の山内家の預けられた。子孫は加藤氏を名乗り旗本となったという。万治元年9月10日土佐で死去、49歳。

武家・大名録の表紙に戻る
歴史の勉強

Last modified -