歴史の勉強

久世氏の祖は三河国額田郡の小野氏であり、小野十郎高広の子の高長が、母方の姓であった久世氏を名乗ったことに始まるとされる。
高長の孫にあたる広宣が大須賀康高に属して武田勢を相手に活躍し、その後徳川家康に仕えて2千5百石の旗本となった。
広宣の長子広当は家督相続の際に弟の広之に5百石を分知し、その広之は小姓より累進して寛文9年(1669年)に大名に列し、下総関宿藩主となり老中にも列した。
二代重之のときに備中庭瀬に移り、その後丹波亀山、三河吉田を経て再び関宿に戻り、明治まで八代に渡り領知した。
初代広之のほか、二代重之、四代広明、七代広周が老中に列しており、広周は安政五カ国条約締結や井伊大老暗殺後の老中首座として幕末の難局の処理にあたった。

久世広之 くぜひろゆき
1609~1679(慶長14~延宝7)、幼名三之丞、従五位下、大和守、従四位下、侍従
下総関宿5万石

久世広宣の三男として生まれ、元和8年(1622年)に二代将軍秀忠の小姓となる。寛永元年(1624年)8月より小姓組番士。
寛永3年(1626年)に父広宣が没し兄広当が家督を継いだが、その際に下総の旧領5百石の分知を受けた。
寛永4年(1627年)正月御膳番、寛永9年(1632年)12月書院番、寛永10年12月中奥番士、寛永11年6月小納戸役、寛永12年11月徒頭、寛永15年(1638年)11月小姓組番頭、寛永17年(1640年)6月側衆と進み、寛永18年8月に4千5百石を加増され5千石となる。
慶安元年(1648年)9月には相模、武蔵、上総国内で5千石の加増を賜り、1万石となって大名に列した。承応2年(1653年)9月から牧野親成、土屋数直、内藤忠清らとともに四代将軍家綱の教育係となった。
万治2年(1658年)10月相模国高座郡で5千石を加増され、寛文2年(1662年)2月若年寄となり武蔵国久良岐内で5千石を加増される。
翌寛文3年8月に老中になった。寛文4年4月には相模、武蔵、上総国内などで都合2万石の加増、寛文9年(1669年)6月にさらに1万石を加増されたうえ領地替えがあり、5万石の関宿城主となった。
四代家綱時代の老中は大老酒井忠清の絶大な権力の下にあったために、影が薄い印象であるが、武から文への政策転換を推進したほか伊達騒動の解決に奔走した。
また広之は将軍側近として小姓から出世して諸侯となり、大名久世氏の祖となったのは能力はともかく卓越した手腕があったことは間違いない。延宝7年6月25日に71歳で死去した。

久世重之 くぜしげゆき
1660~1720(万治3~享保5)、幼名勝之助、従五位下、出雲守、讃岐守、大和守、従四位下、侍従
下総関宿5万石→備中庭瀬5万石→丹波亀山5万石→三河吉田5万石→下総関宿6万石

先代広之の三男で2人の兄が早世したために嗣子となった。延宝7年(1679年)に父広之の死去により家督を継いだ。
同年9月に奏者番となるが、延宝9年(1681年)6月五代将軍綱吉による越後騒動再審による余波で、先代広之が越後騒動の審議に関与しその裁定に遺漏があったとされ、重之に逼塞が申し渡される。
これは綱吉の政略、遺恨晴らし(綱吉の五代将軍への就任に反対した大老酒井忠清らへの意趣返し)であって、先代家綱時代の幕閣はことごとく綱吉の忌避を受けた
しかしさすがに重之の逼塞には無理があり、12月に赦免されたが、奏者番は退任した。天和3年8月(1683年)に封地を備中6郡内に移されて備中庭瀬5万石に転封。
貞享2年(1685年)9月奏者番に復して封地の一部を丹波に移され丹波亀山5万石に移る。このときの領地は丹波に3万8千石、備中に1万2千石であった。
亀山在封は12年で、元禄10年(1697年)に三河吉田に転封された。吉田在封中の元禄15年(1702年)8月に浜名湖西岸の新居関番を命ぜられ、これ以後新居関は吉田藩の管轄下に置かれることとなる。
宝永元年(1704年)10月に寺社奉行、翌宝永2年9月若年寄、翌10月に吉田在封8年にして下総関宿に再入封。
根津権現造営奉行、六代将軍家宣将軍宣下行事、江戸城本丸補修奉行、朝鮮通信使接待役、将軍家宣葬儀の奉行などを勤め、正徳3年(1713年)老中昇進。
享保元年(1716年)には七代将軍家継葬儀の奉行を勤め、享保3年(1718年)3月に1万石を加増される。享保5年6月27日に61歳で病死。

久世輝之 くぜてるゆき
1699~1749(元禄12~寛延2)、従五位下、隠岐守、讃岐守
下総関宿5万8千石

先代重之の四男で、3人の兄が早世したために嗣子となり、享保5年(1720年)父重之の死去により封を継いだ。このときに2千石を弟広籌に分与、広籌は新田3千石を合わせ5千石を受けた。
寛延元年(1748年)8月22日に家督を養子広明に譲り隠居、寛延2年8月18日に51歳で死去した。

久世広明 くぜひろあき
1731~1785(享保16~天明5)、幼名熊太郎、従五位下、出雲守、従四位下、大和守
下総関宿5万8千石

分家の久世広武の長男として生まれ、元文4年(1739年)に八代将軍吉宗の伽衆となった。寛保3年(1743年)7月9日に先代輝之の養嗣子となり、寛延元年(1748年)8月に輝之の隠居によって家督を継いだ。
宝暦10年(1760年)12月奏者番、明和2年(1765年)8月寺社奉行兼帯、明和6年(1769年)9月大坂城代となった。このときに関宿城は収公されて佐倉藩預りとなり、広明の封地は河内、美作国内に移された。
安永3年(1774年)に美作の封地を下総などに移されて関宿に再入封、安永6年(1777年)9月に京都所司代となる。天明元年(1781年)閏5月西の丸老中に就任し、このときに河内の領地も常陸、下野に移された。
同年9月に本丸老中就任。関宿領内は洪水被害が多発し、宝暦7年(1757年)や安永9年(1780年)、天明元年(1781年)には幕府より5千両づつ貸与を受けた。このために領地替えを願い、下総、下野、常陸の2万石を伊豆、相模、武蔵に移された。
天明5年正月24日に病の為に55歳で死去。

久世広誉 くぜひろやす
1751~1821(宝暦元~文政4)、幼名勝之助、従五位下、隠岐守、大和守
下総関宿5万8千石

先代広明の嫡男で、天明5年(1785年)に父広明の死去により封を継いだ。初名を広敦といい寛政7年(1795年)前後に広誉と改名した。
文化14年(1817年)11月7日に病の為に隠居し、文政4年3月に71歳にて死去。

久世広運 くぜひろたか
1799~1830(寛政11~天保元)、幼名吉九郎、従五位下、長門守
下総関宿5万8千石

先代広誉には長男綏之がいたが、文化10年(1813年)9月に病に罹り、のちに死去した。このために綏之の嫡子であった広運が広誉の世子となった。
文化14年(1817年)11月に広誉は病により隠居し、嫡孫であった広運が家督を継ぐ。文政7年(1824年)11月に藩校教倫館を設立し文武の振興に努めたが、天保元年8月20日に32歳で没した。

久世広周 くぜひろちか
1819~1864(文政2~元治元)、幼名謙吉、従五位下、隠岐守、大和守、出雲守、従四位下、侍従
下総関宿5万8千石

旗本大草高好の二男として生まれ、先代久世広運の養嗣子となり、天保元年(1830年)8月に広運が死去したために家督を継承した。
天保8年(1837年)8月奏者番、天保14年(1843年)10月寺社奉行兼帯、嘉永元年(1848年)10月西の丸老中、嘉永4年(1851年)12月本丸老中となった。
老中在職中は安政4年(1857年)7月勝手掛、翌5年6月養君御用掛を担当し、次いで外国御用取扱に就任して安政五カ国条約締結を担当。
将軍継嗣問題では一橋派に近く、紀州派の大老井伊直弼と対立して安政6年(1859年)10月に老中を解任された。
しかし桜田門外の変で井伊大老が暗殺されると老中に復帰し、1万石の加増を受ける。広周は老中首座となり安藤信正とともに混乱した政治の収拾に努めた。
五品江戸廻送令の発布や一橋派諸大名の謹慎解除、軍制改革推進などを実施し、皇女和宮と将軍家茂の婚儀を推進した。
しかし文久2年(1862年)正月の坂下門外の変で僚友の安藤信正が襲撃されて安藤とともに失脚、広周は同年6月2日老中を辞任した。
失政を咎められて同年8月に1万石を減封のうえ、隠居、永蟄居を命じられ、2年後の元治元年6月25日に、関宿において46歳で死去した。

久世広文 くぜひろふみ
1853~1899(嘉永6~明治32)、幼名謙吉、従五位下、出雲守、隠岐守
下総関宿4万8千石

先代広周の嫡男で嘉永6年に生まれた。文久2年(1862年)に老中であった父広周が失脚し、さらに隠居を命じられたために家督を継いだ。
家督の継承は8月16日で、さらに11月20日に広周が永蟄居を命じられて、このときに1万石を減封されて4万8千石となる。
元治元年(1864年)に水戸天狗党の乱の鎮圧に出兵、さらに江戸周辺の板橋で勤番にあたる。
幕末、藩内は佐幕と勤皇に分かれて争ったが、慶応4年(1868年)4月22日に官軍が関宿に入ると佐幕派藩士は脱藩して江戸に出て、広文を深川の別邸に移す。
勤皇派は深川に襲って広文奪還を目指したが失敗し、佐幕派は広文を立てて上野山の彰義隊の戦いに参加した。
しかし戦闘に敗れて広文は佐倉に落ち、その後帰藩して謹慎した。勤皇派藩士の再三の嘆願により広文は隠居、5千石減封の上、弟広業への家督が認められた。
広文は明治2年(1869年)9月に赦され、明治32年10月18日48歳で没した。

久世広業 くぜひろなり
1858~1911(安政5~明治44)、幼名順吉、従五位下
下総関宿4万3千石

先々代広周の二男で、兄広文が明治元年(1868年)に戊辰戦争の戦後処理で隠居させられたことで、家督を継いだ。兄広文は佐幕派藩士に担がれて彰義隊に参加して敗北、官軍から隠居と5千石減封の咎を受けた。
襲封の翌年の明治2年(1869年)に版籍奉還を行い関宿藩知事、明治4年(1871年)に廃藩置県によって免官となった。明治44年11月7日に54歳で死去した。

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