歴史の勉強

桑山氏は典型的な豊臣大名で、重晴が秀吉に仕え後にその弟秀長に属した。秀長が大和郡山城主となると、重晴は支城となった紀伊和歌山で3万石を与えられ大名となった。
関ヶ原役では二男元晴、嫡孫一晴とともに東軍に属し、戦後は一晴の系統が宗家となり大和新庄藩主となったが、一尹が上野寛永寺で行われた徳川家綱の法会に際して勅使に不敬をはたらいたとして改易された。
一方、重晴の二男元晴も大名となり、大和御所藩を立藩したが二代貞晴のときに無嗣断絶、また元晴の子の清晴も分知により和泉谷川藩を立てたが、将軍秀忠の勘気を受け除封された。
桑山氏の出自は家譜では結城朝光の子孫宗広の三男親治が尾張国海東郡桑山庄を領して、桑山を姓としたとするが、伝承の域を出ない。また清和源氏の土岐氏の後裔とする説もあるが確証はない。

元晴系桑山氏のページ
清晴系桑山氏のページ

桑山重晴 くわやましげはる
1524〜1606(大永4〜慶長11)、従五位下、修理大夫
紀伊和歌山4万石

大永4年に桑山以則の子として尾張で生まれ、はじめ丹羽長秀に仕えていたという。姉川の戦いなどで活躍して秀吉の目にとまり、天正2年(1574年)に請われて秀吉に仕えた。
天正8年(1580年)に但馬竹田城主となり1万石を得た。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも活躍して1万石加増、天正13年(1585年)に秀吉の弟秀長が紀伊、大和両国に封ぜられると、その家老職を命ぜられ和歌山城代となった。このとき1万石を加増されている。
文禄4年(1595年)には和泉谷川において、さらに1万石を加増され都合4万石となる。慶長元年(1596年)に出家し桑山治部卿法印と称した。
同年5月11日に2万石を嫡孫一晴に、1万石を二男元晴に譲り、自身は1万石を治めた。関ヶ原役では東軍に属して和歌山城を守備し、新宮城の西軍堀内氏善を攻めた。
戦後、家督を一晴に譲り隠居し、このときに一晴から4千石、元晴から2千石を譲られて1万6千石の隠居領を得て和泉谷川に移った。慶長11年10月1日に83歳で死去した。
なた、重晴は千利休の高弟でもあり、文化人としても有名であった。

桑山一晴 くわやまかずはる
1575〜1604(天正3〜慶長9)、幼名小藤太、従五位下、修理大夫
紀伊和歌山2万石→大和布施(新庄)2万石

大名桑山氏の初代重晴の長男は一重であるが、一重は父に先立ち天正10年(1582年)4月に26歳で死去したために、一重の長男一晴が嫡孫となった。
秀吉に仕えて文禄の役では朝鮮に渡り活躍し、慶長元年(1696年)5月に祖父重晴から2万石を譲られて和歌山城主となった。
関ヶ原役では重晴とともに東軍に属して和歌山城を守備し、西軍の新宮城主堀内氏善を攻めて降した。
戦後に重晴から家督を譲られ、うち4千石を重晴の隠居料に宛てる。同じく慶長5年(1600年)に大和布施に移封され、陣屋と城下の整備を始めるが、慶長9年2月28日に30歳で病没した。

桑山一直 くわやまかずなお
1578〜1636(天正6〜寛永13)、幼名久八、従五位下、左衛門佐
大和新庄1万6千石

桑山一重の二男で、先代一晴の弟にあたる。慶長9年(1604年)に兄の養嗣子となり家督を継ぎ、陣屋や城下の整備を進めた。完成した陣屋を新城と称し、陣屋町を新庄村と改めて、藩名も新庄藩とした。
なお、先代一晴移封時は石高2万石であったが、祖父重晴の隠居領に4千石を宛てたために石高は1万6千石となった。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では河内道明寺で後藤基次、薄田兼相と戦って功を挙げ、家康から加増を約束されたが、元和2年(1616年)に旗本別所孫次郎伊藤治明の喧嘩を仲裁した際に負傷して、責任を追及されて閉門処分となり加増は実現しなかった。
寛永3年(1626年)に家光の上洛に供奉し、寛永10年(1633年)に幕命により北陸、山陰を巡見した。
また、3千石を一族の桑山貞利に分与したために所領は1万3千石となった。寛永13年8月22日に59歳で死去した。

桑山一玄 くわやまかずはる
1611〜1684(慶長16〜貞享元)、従五位下、修理亮
大和新庄1万3千石

先代一直の長男として駿河国で生まれ、寛永13年(1636年)に父一直の死去により家督を継いだ。
寛永14年(1637年)に改易された本多政武の大和高取城受取役、正保4年(1647年)に京都蓮華王院修理奉行などを勤め、延宝5年(1677年)8月22日に致仕して長男一尹に家督を譲った。
しかし天和2年(1682年)5月に一尹は改易となり桑山家は取り潰されてしまう。その2年後の貞享元年2月1日に74歳で死去した。

桑山一尹 くわやまかずただ
1645〜1683(正保2〜天和3)、幼名三之助、従五位下、美作守
大和新庄1万1千石

先代一玄の長男として生まれ、延宝5年(1677年)8月に父一玄の致仕により襲封した。そのときに弟一慶に千2百石、同じく一英に8百石を分与し、新庄藩は1万1千石となった。
天和2年(1682年)5月に寛永寺において行われた家綱の法会の際に、新院使の館伴役となったが、勅使に対して不敬の振る舞いがあったとして改易され、弟2人に預けられ、終身扶持米3百俵を与えられた。
一説には陸奥国八戸藩主南部直政と対立していたことが原因ともいう。天和3年閏5月11日に39歳で死去した。

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