歴史の勉強

小出氏の出自はいくつか説があって、「藩翰譜」では藤原南家二階堂氏流とあれ、二階堂行政から九代目の時氏が信濃国伊那郡に住して小出氏を称し、さらに祐重の時に尾張国愛智郡中村に移ったとされる。
また「百家系図稿」では藤原南家ではあるが工藤氏を祖とし、工藤家俊が信濃国伊那郡林村に住して林次郎と名乗り、その孫の能綱が小出を称したされる。能房のときに諏訪氏に仕えていたが、有能の弟有政が尾張国中島郡に移ったのが尾張小出家で、その子孫は尾張守護の斯波家、さらに織田信長に仕えたという。
いずれにせよ藤原南家の出かどうかも含めて確証はなく、出自は不明とされていて、はっきりするのは秀政の父正重からである。戦国期の秀政は大政所の妹を妻とし秀吉と親戚になった。これが小出氏を大名とした。
秀吉の側近として事務面を担当したようで、秀政は天正13年(1585年)に和泉岸和田で4千石を与えられ、その後加増を経て文禄3年に1万石を得て大名となり、嫡男吉政も文禄2年(1593年)には播磨龍野2万石の大名となった。
関ヶ原役ではその立場もあって秀政、吉政とも西軍に属したが、秀政二男の秀家が東軍に属したことで家は存続した。すなわち秀政‐吉政系の嫡流が岸和田藩主から但馬出石藩主、吉政の子の吉英を祖とする庶家が出石藩主から丹波園部藩主、秀家系が和泉陶器藩主となった。

吉親系小出氏のページ
三尹系小出氏のページ

小出秀政 こいでひでまさ
1540〜1604(天文9〜慶長9)、従五位下、播磨守
和泉岸和田3万石

小出正重の子として尾張国愛智郡中村で生まれる。正室に大政所の妹を迎えたことから、秀吉の親戚となり、もともと縁者の少ない秀吉に厚遇され、豊臣家蔵入地代官となった。
天正13年(1585年)に紀州根来征伐が終わると、和泉岸和田に入り3千9百石余りを得、さらに文禄3年(1594年)に6千余石を加増されて大名となり、翌文禄4年にはさらに2万石を加増され都合3万石となった。
岸和田城の整備に精力を傾け、慶長3年(1598年)には天守を含めて大半が完成した。秀吉死去の際に片桐且元とともに秀頼の守役を命ぜられたという。そのために関ヶ原役では西軍に与した。
しかし二男秀家が家康に与したために戦後は改易を免れて本領を安堵された。慶長9年3月22日に大坂で没した。

小出吉政 こいでよしまさ
1565〜1613(永禄8〜慶長18)、幼名小才次、従五位下、大和守、播磨守
和泉岸和田3万石

先代秀政の長男として尾張国愛智郡中村で生まれた。父とともに秀吉に仕え、天正15年(1587年)に父とは別に岸和田周辺で6千石、文禄2年(1593年)に2万石で播磨龍野城主となった。
文禄4年(1595年)には但馬出石に移り6万石を得た。慶長5年(1600年)の関ヶ原役では西軍に属し、丹後田辺城の細川幽斎攻囲戦に加わったが、弟秀家が東軍で戦功を挙げたために領地を安堵された。
慶長9年(1604年)に岸和田城主であった父秀政の死去に伴い、出石6万石を長男吉英に譲り、岸和田藩主となった。岸和田城のと城下町の整備に努めたが、慶長18年2月29日に49歳で大坂にて死去した。

小出吉英 こいでよしひで
1587〜1668(天正15〜寛文8)、従五位下、大和守
和泉岸和田5万石→但馬出石5万石

先代吉政の長男として大坂で生まれ、慶長9年(1604年)に父吉政が岸和田城主となったために、但馬出石6万石の藩主となる。のちに叔父の三尹に1万石を分与して5万石となる。
慶長18年(1613年)2月に岸和田藩主であった父吉政が死去したために、今度は吉英が岸和田藩主を継いだ。このとき出石領のうち2万石を引き続き領地としたために岸和田藩は5万石となった。残った出石3万石は弟吉親が継いだ。
吉英は岸和田城の整備も引き継ぎ、後世の城郭の基礎を整備したとされる。大坂冬の陣では天王寺口を攻め、夏の陣では豊臣方の大野治房を追撃して戦功を挙げたが、秀吉の縁につながるために家康からは疑われ、岸和田城には家康の信任厚い武将が加勢の名目で入城した。
大坂の陣後の元和5年(1619年)に旧領の但馬出石へ転封となり、出石藩主だった吉親は丹波園部へ移された。出石では山城の有子山城から現在地に出石城を新たに築き、藩庁を移している。寛文6年(1666年)5月14日に二男吉重に家督を譲り隠居し、寛文8年3月9日に82歳で死去した。

小出吉重 こいでよししげ
1607〜1674(慶長12〜延宝2)、幼名万作、従五位下、修理亮
但馬出石4万5千石

先代吉英の二男として出石で生まれ、寛文6年(1666年)に父吉英の致仕により襲封したが、すでに60歳と高齢であった。このとき弟英本(ふさもと)と英信に各2千石、同じく英勝の千石を分与した。
高齢でもあり在封は短く、延宝元年(1673年)12月12日に致仕し、1月余り後の延宝2年正月18日に68歳で没した。

小出英安 こいでふさやす
1637〜1691(寛永14〜元禄4)、幼名万作、従五位下、備前守
但馬出石4万3千5百石

先代吉重の長男として生まれ、延宝元年(1673年)12月に吉重が致仕したために封を継いだ。このとき弟英直に千5百石を分与した。養父郡の伊佐新田をはじめとした新田開発を行った。
また襲封直後の延宝2年(1674年)には最初の藩札を発行している。このとき札元を若狭屋八右衛門が勤めたが、不正があったとしてその後打ち首となり、以後は公儀札となった。元禄4年12月26日に55歳で死去した。

小出英益 こいでふさえき
1667〜1692(寛文7〜元禄5)、幼名鶴松、従五位下、大和守
但馬出石4万3千5百石

先代英安の長男として生まれ、元禄4年(1691年)12月の父の死去により翌元禄5年3月11日に襲封したが、同年10月10日に26歳の若さで急逝した。

小出英長 こいでふさなが
1665〜1694(寛文5〜元禄7)、幼名久次郎、従五位下、播磨守
但馬出石4万4千石

先々々代藩主吉重の弟英信の二男として生まれ、父の所領のうちから5百石を分与され旗本となった。元禄5年(1692年)に先代藩主英益が急逝したために末期養子となり、封を継いだ。これにより出石藩は4万4千石となった。
元禄7年(1694年)11月に長男久千代が誕生したが、その直後の同年12月17日に30歳で死去した。

小出英及 こいでふさつぐ
1694〜1696(元禄7〜元禄9)、幼名久千代
但馬出石4万4千石

先代英長の長男として生まれた。出生の翌月に英長が死去したために、元禄8年(1695年)2月に生後4か月で家督を継いだ。後見に一族の小出英直、小出英輝、小出英雄が任ぜられた。
小出家は先々代英益す、先代英長ともに在封後数年で急死しており、英及襲封直後にも藩主死去小出家断絶の噂がたったという。その噂はしばらくして真実となった。
すなわち英及もまた在封2年に満たない元禄9年10月22日に死去した。わずか3歳であった。当然嗣子がなく、小出家は断絶となった。

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