歴史の勉強

江戸中期に加納久通が伊勢東阿倉(八田)で大名となり、久通-久堅-久周-久慎-久儔と継承した。久儔は飛び領であった上総国一宮に陣屋を移し、その後久徴-久恒-久宜と継いで廃藩置県となった。
加納氏は松平泰親の庶子久親の子孫で、始めは松平氏を称していたが、六代久直が家康に仕えたときに遠慮して、居住地が三河国加茂郡加納村だったことから加納氏を称した。
久利のときに紀伊徳川家の祖徳川頼宣に付属せられて和歌山藩士となる。その2代後の久通のときに藩主吉宗が将軍に就任し、同時に久通も幕臣となった。享保11年(1726年)に1万石とな諸侯に列し東阿倉藩祖となる。

加納久通 かのうひさみち
1673〜1748(延宝元〜寛延元)、幼名孫市、角兵衛、従五位下、遠江守
伊勢東阿倉川1万石

紀伊和歌山藩士加納政直の二男として紀伊に生まれ、同族の加納久政の養子となった。幼少より松平頼方(徳川吉宗)に仕え、吉宗が和歌山藩主となると御用役番頭を勤め伊勢国内で千石を与えられた。
有馬氏倫とともに吉宗の側近であり、享保元年(1716年)に吉宗が八代将軍となると、氏倫とともに幕臣となった。
享保元年5月26日御側御用取次、翌享保2年千石加増、次いで享保11年(1726年)正月11日に8千石を加増され、都合1万石となり伊勢国東阿倉川に陣屋を構えた。
加納氏は参勤交代をしない定府大名で、久通は吉宗の信頼も厚く、常に吉宗の側にあって享保の改革を推進した。性格も温厚で慎み深かったという。
延享2年(1745年)に吉宗が将軍職を家重に譲り、大御所として西の丸に移ったあとも西の丸若年寄となり、寛延元年8月17日に76歳で死去するまで吉宗に仕え続けた。

加納久堅 かのうひさかた
1711〜1786(正徳元〜天明6)、幼名頼母、従五位下、遠江守
伊勢東阿倉川1万石

紀伊和歌山藩士加納政信の二男として紀伊国で生まれた。先代久通の長男久武が廃嫡されたために、元文4年(1739年)に久通の養子となり、寛延元年(1748年)に久通死去により家督を継承した。
宝暦元年(1751年)5月大番頭、宝暦13年(1768年)7月奏者番、明和4年(1767年)10月若年寄となり、若年寄在任中の天明6年8月24日に76歳で没した。
藩政では天明年間に天災に見舞われ、幕府から2千両借り受けたほか、桑名藩領との間に境界争いを生じ幕府の裁決を受けている。

加納久周 かのうひさのり
1753〜1811(宝暦3〜文化8)、幼名久弥、従五位下、遠江守
伊勢東阿倉川1万3千石

幕臣でのちに大名となった大岡忠光の二男として生まれた。実父忠光は、九代将軍家重の側近で側用人となり、武蔵岩槻2万石の大名となった。
先代の東阿倉川藩主久堅の世子久致が夭逝したために、明和9年(1772年)久堅の養女を娶り久堅の養子となった。天明6年(1786年)10月に久堅が死去し家督を継ぐ。
天明7年(1787年)3月に大番頭に就任した。松平定信の信任が厚く、定信が老中に就任すると御側申次となって定信を補佐して寛政の改革を推進した。
寛政5年(1793年)に若年寄並、寛政8年(1796年)9月には改革推進の功で上野国内に3千石加増、翌寛政9年に若年寄並を辞した。
寛政12年(1800年)伏見奉行となり文化4年(1807年)12月まで勤め、文化5(1808年)年6月20日に嫡男久慎に家督を譲り隠居、文化8年6月2日に59歳で死去した。

加納久慎 かのうひさちか
1776〜1821(安永5〜文政4)、幼名英次郎、従五位下、大和守
伊勢東阿倉川1万3千石

先代久周の嫡男として生まれ、文化5年(1808年)年6月に久周が隠居し家督を譲られた。翌文化6年11月に大番頭となり、文政4年8月13日に46歳で死去した。

加納久儔 かのうひさとも
1796〜1847(寛政9〜弘化4)、幼名英太郎、従五位下、遠江守、備中守
伊勢東阿倉川1万3千石→上総一宮1万3千石

先代久慎の長男で、文政4年(1821年)8月に久慎が死去したために家督を継いだ。文政9年(1826年)3月に陣屋を飛領であった上総長柄郡一宮本郷村に陣屋を移し、一宮藩を立藩したとされる。
一宮では岩堀市兵衛らを用いて面積2万余坪の洞庭湖という灌漑用水を築くなど農政を重視し、天保9年(1838年)には天保の大飢饉で苦しむ領民を囲米で救った。
文政10年(1827年)大番頭、天保4年(1833年)伏見奉行、天保9年(1838年)奏者番となり天保12年(1841年)に病により辞職した。
天保13年(1842年)10月21日に致仕して長男久徴に家督を譲り、弘化4年7月10日に51歳で死去した。

加納久徴 かのうひさあきら
1813〜1864(文化10〜元治元)、幼名汲次郎、従五位下、大和守、備中守、駿河守
上総一宮1万3千石

先代久儔の長男として生まれ、天保13年(1842年)10月父久儔の隠居により藩主となった。
嘉永2年(1849年)大番頭となり、安政2年(1855年)には講武所総裁を兼ねた。安政4年(1857年)若年寄に就任し、和宮降嫁の際には江戸までの警護役を勤めるなど、幕末期の幕府中枢で活躍した。
また幕府の海防政策により、領地の海岸に武士溜陣屋を設けて訓練を行ない、弘化元年(1844年)には他藩に先駆けて海岸砲台を設けた。
文久3年(1863年)に九十九里地方で真忠組の騒乱が起きると、佐倉藩、多古藩、福島藩とともに出兵してこれを鎮圧した。その直後の元治元年3月22日に52歳で死去した。

加納久恒 かのうひさつね
1846〜1867(弘化3〜慶応3)、幼名官一郎、従五位下、大和守
上総一宮1万3千石

先代久徴には子がなかったために、上野七日市藩主前田利和の二男久成を養子とした。しかし久成は早世したため、改めて上総久留里藩主黒田直静の二男久恒を養子に迎え、元治元年(1864年)久徴死去により久恒が藩主となった。
襲封直後の元治元年6月から8月にかけて市中取締を勤めたが、藩主にあることわずか3年、慶応3年7月29日に22歳で死去した。

加納久宜 かのうひさよし
1848〜1919(嘉永元〜大正8)、幼名嘉次郎、従五位下、遠江守
上総一宮1万3千石

筑後三池藩主立花種周の五男種道の二男として生まれ、安政2年(1855年)の江戸での大地震で両親を失い、立花宗家の種恭のもとで養育された。
慶応2年(1866年)親戚の加納久恒急死を受けて急養子となり、一宮藩主となった。戊辰戦争では当初は態度を明確にせず、徳川慶喜の助命嘆願運動に加わる決意をしたが、新政府軍の東進により恭順に転じ、駿府の東征大総督に籾2千俵を献納した。
明治2年(1869年)版籍奉還により藩知事、明治4年(1871年)廃藩置県により免職。明治維新後は盛岡・新潟両師範学校長、判事、地方裁判所長などを歴任し、明治23年(1890年)貴族院議員、明治27年(1894年)鹿児島県知事となる。
産業組合、帝国農会、日本競馬会創設に尽力し、日本農政の父と称され、その後一宮町長となり、大正8年3月2日72歳で死去。

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