歴史の勉強

亀井氏の出自は宇多源氏佐々木氏流とも、紀伊の鈴木氏の一族であったともいい、その発祥を紀伊国亀井とするが、いずれも信憑性はなく、その出自についてはっきりしない。
戦国期には尼子氏と姻戚関係があったともいわれており、佐々木氏流というのもそのあたりからの想像かもしれない。
戦国期には尼子氏の一門衆として「尼子分限帳」に亀井淡路守の名が登場する。石高3万8千石であるから、重臣の一人といっていい。その亀井氏は尼子の家老職を勤めた秀綱が、毛利氏との戦いで戦死したとも投降したともいわれ、断絶してしまった。
秀綱の女が山中鹿之助に嫁いでおり、鹿之助は妻の妹を養女にして湯新十郎茲矩に嫁がせ、茲矩に亀井姓を名乗らせた。
湯氏もまた尼子の重臣のひとりであり、亀井氏を継いだ茲矩は鹿之助とともに尼子勝久を擁して尼子家再興に走る。鹿之助、茲矩らは秀吉に属して毛利に対抗するが、籠城した上月城を毛利氏に攻められて失敗に終わる。
このとき勝久は自害、鹿之助は毛利氏に捕捉され殺害されたが、茲矩は生き残り秀吉に仕え、因幡国鹿野で1万3千石を得た。関ヶ原役では東軍に属し、戦後加増されて石見津和野4万3千石に移され、幕末まで津和野藩主を継承した。

大名騒動録・津和野騒動のページ

亀井茲矩 かめいこれのり
1557~1612(弘治3~慶長17)、幼名新十郎、従五位下、武蔵守
因幡鹿野3万8千石

戦国大名尼子氏の重臣であった湯永綱の子として玉造湯村で生まれた。天正2年、同じく尼子氏の重臣であった亀井秀綱の女が山中鹿之助の室となっており、その妹を鹿之助の養女としたのちに茲矩に嫁がせた。
これにより茲矩は亀井氏を称し、鹿之助とともに主家尼子氏の再興を目指す。上月城の戦いに敗れて、鹿之助が落命したのち、茲矩は豊臣秀吉に与して鳥取城攻撃に加わり、戦後因幡鹿野1万3千8百石を賜った。
秀吉の九州征伐に参陣、文禄・慶長の役では加藤嘉明の指揮下で水軍を率いた。慶長5年(1600年)の関ヶ原役では東軍に属し、戦後加増され都合3万8千石を得た。
湖山池や内海を干拓し、灌漑用水を開削するなどして多くの新田を開き、また慶長12年、同14年、同15年には朱印状を得てシャムと交易をおこなった。
また長崎に役所を設けて対外貿易を行い、領内に輸入した稲や茶、生姜などを栽培させた。慶長17年正月26日に57歳で鹿野において死去した。
なお茲矩は信長・秀吉より出雲国を与えるとの約束を取り付け朱印状まで得ていたが、本能寺の変とその後の毛利氏との講和により不可能となり、代りに琉球を求めて秀吉は亀井琉球守殿と書いた扇を茲矩に授けたという。

亀井政矩 かめいまさのり
1590~1619(天正18~元和5)、幼名大昌丸、新十郎、従五位下、右兵衛佐、豊前守
因幡鹿野4万3千石→石見津和野4万3千石

先代茲矩の二男として生まれ、茲矩の願いにより最初家康に仕え、さらに徳川秀忠の近習となった。慶長14年に家康の命により、松平(松井)康重の女を娶り、伯耆国久米郡と河村郡内で5千石を賜った。
慶長17年(1612年)正月に父茲矩が死去したために家督を継ぎ、鹿野藩は都合4万3千石となった。大坂の冬、夏両陣に参陣し、元和3年7月に石見津和野に移封となった。
政矩は津和野の地を嫌い、元和5年に安芸広島の福島正則が改易になると、備後福山への移封を望んだという。政矩は広島城受取のために出動したが、その際に病気となり津和野に戻って加療した。
同年8月に上洛の命が下り、病をおして上京したが、伏見の狼谷で落馬し、それがもとで同年8月15日に30歳で死去した。

亀井茲政 かめいこれまさ
1617~1680(元和3~延宝8)、幼名大力、従五位下、能登守、豊前守
石見津和野4万3千石

先代政矩の二男として因幡鹿野で生まれ、元和5年(1619年)8月に政矩が落馬がもとで急死したことにより、同年11月にわずか3歳で襲封した。若年のために、外祖父の松平(松井)康重が後見した。
幕法では嗣子幼少のために改易となるところだが、生母光明院が茲政の年齢を15歳と偽って、将軍秀忠に家督相続を嘆願し、光明院の父が家康の信任厚かった松平康重であったこともあり、相続が許されたという。
元和6年(1620年)大坂城普請手伝い、寛永3年(1626年)秀忠・家光父子の上洛の際に光明院とともに謁見、寛永12年(1635年)江戸城普請手伝いなどのほか、勅使馳走役、火消役、諸門番などを勤める。
茲政の代には、その治世の早い時期から重臣間の主導権を巡る対立が起き、やがて多胡主水真清と多胡勘解由を中心とする騒動に発展する。幕府も介入して仲裁したが対立は治まらず、勘解由が主水を訴える事態となった。
その結果、寛永12年(1635年)主水側の勝訴となり、翌寛永13年に家臣団が大幅に編成替えされ、さらに寛永14年(1637年)には検地も行われた。晩年の延宝7年(1679年)に豊前守に改め、翌延宝8年12月18日に68歳で津和野において死去した。

亀井茲親 かめいこれちか
1669~1731(寛文9~享保16)、幼名松之助、従五位下、能登守、隠岐守
石見津和野4万3千石

先代茲政の三男として寛文9年4月に津和野江戸で生まれ、重臣の多胡主水真武の養子となった。しかし茲政の長男茲朝が延宝7年(1679年)9月に死去し、二男茲次も病気であったために、茲政の嗣子となった。
延宝8年(1680年)12月に父茲政が死去し、翌天和元年2月に家督を相続した。儒学を新井白石に、絵画を狩野洞春にそれぞれ学び、家臣にも伊藤東涯や室鳩巣、山鹿素行に師事させるなど文教中心の政策を行った。
元禄11年(1698年)に勅使接待役を勤めた際に、高家の吉良義央の陰湿ないじめに立腹して刃傷に及ぼうとしたが、重臣多胡真蔭が吉良に賄賂を贈り、以後いじめは止んだとの逸話が残る。忠臣蔵の桃井若狭介は茲親、加古川本蔵は真蔭がモデルといわれる。
宝永6年(1709年)に内裏造営を手伝い、この功で同年10月に中御門天皇から直綱の刀と新勅撰集を賜り、12月には幕府からも時服十領を賜った。さらに同年には領内の高津蟠竜湖の疏水を完成させた。享保16年5月29日に63歳で、津和野にて死去した。

亀井茲満 かめいこれみつ
1713~1736(正徳3~元文元)、幼名松之助、松之丞、従五位下、因幡守
石見津和野4万3千石

先代茲親の六男として正徳3年7月18日に津和野で生まれ、兄で茲親の嗣子であった茲長が享保11年(1726年)死去したために、茲親の嗣子となった。享保16年(1731年)5月29日に父茲親が死去したために封を継いだ。
翌享保17年、虫害により領内は飢饉となり、幕府の援助もうけたが、多くの餓死者を出した。元文元年4月9日に、24歳の若さで死去した。

亀井茲延 かめいこれのぶ
1722~1756(享保7~宝暦6)、幼名八十郎、従五位下、豊前守
石見津和野4万3千石

先々代茲親の長男茲長(享保11年死去)の第一子として江戸で生まれ、分家である亀井矩致の跡を継いでいたが、先代茲満が元文元年(1736年)死去したために、急養子となって15歳で家督を継いだ。
元文3年(1738年)6月に初帰国の途中、遠州白須賀で病を得た。帰国後、治療にあたったが回復せず、寛保3年(1743年)閏4月3日に隠居して養子茲胤に家督を譲り、宝暦6年4月4日に35歳で死去した。

亀井茲胤 かめいこれたね
1726~1752(享保11~宝暦2)、幼名徳蔵、従五位下、隠岐守、信濃守
石見津和野4万3千石

常陸府中藩主松平(水戸)頼明の五男として生まれ、寛保2年(1742年)9月に先代茲延の婿養子となった。翌寛保3年閏4月3日に茲延が隠居し、家督を譲られた。延享2年(1745年)4月と寛延4年(1751年)3月に勅使接待役を務める。
藩政では蝋た和紙の製造に力を注ぎ財政に貢献したが、寛保3年(1743年)には大嵐で、宝暦元年(1751年)には大雪で大きな被害を受けた。また狩野派の絵画に堪能で、文学を好んだ。宝暦2年7月9日に27歳の若さで、津和野において死去した。

亀井矩貞 かめいのりさだ
1739~1814(元文4~文化11)、幼名吉三郎、従五位下、能登守
石見津和野4万3千石

亀井茲親の二男菅沼靭負定好の二男として江戸で生まれ、亀井矩致の家督を継いだが、先代茲胤に男子がなかったために、その養子となった。宝暦2年(1752年)に茲胤が死去し、家督を継いだ。
矩貞は天明3年(1783年)に隠居するまで32年間にわたり藩主の座にあり、その間宝暦3年(1753年)4月の桜田組防火役を皮切りに、諸門番、防火役、勅使接待役など数多く務め、また明和3年(1766年)と天明元年(1781年)に甲州川普請手伝など公役も果たした。
一方で絵画を得意として狩野派を学び、書にも堪能であった。陶芸にも秀でて、自作の逸品を残している。藩政では宝暦3年(1753年)に洪水や宝暦5年(1755年)風害などにより藩士の知行を借り上げたほか、幕府の公役負担により財政は逼迫した。
天明3年4月18日に家督を矩賢に譲り隠居し、文化5年(1808年)に剃髪して三松斎と号し、文化11年6月16日に江戸において76歳で没した。

亀井矩賢 かめいのりかた
1766~1821(明和3~文政4)、幼名吉三郎、従五位下、隠岐守
石見津和野4万3千石

先代矩貞の長男として明和3年に津和野で生まれた。天明3年(1783年)に矩貞が隠居し、矩賢が封を継いだ。先代矩貞同様、天明4年(1784年)の桜田組防火役を皮切りに、諸門番、防火役、勅使接待役など公役を務めた。
さらに天明の大飢饉などにより藩財政は悪化し、そのために財政整理を目的として囲米千石の支出補充の制を施行したり、目安箱を設置したりしたが、先代同様学問肌であり文化振興費用が多く、財政再建は成らなかった。
一方文教政策には熱心で、天明6年(1786年)には藩校養老館を開校し、文化12年(1815年)には医学を志す庶民に学資貸与の制度を設けた。また文化元年(1804年)に天領の日原村との間で抗争があり、幕府に訴えて解決した。
文政2年(1819年)5月16日に家督を弟の茲尚に譲り隠居し、2年後の文政4年2月24日に江戸において56歳で没した。

亀井茲尚 かめいこれなお
1786~1830(天明6~天保元)、幼名謙次郎、敬次郎、珪次郎、従五位下、大隅守
石見津和野4万3千石

先々代矩貞の三男として津和野で生まれ、文化7年(1810年)に兄矩賢の養子となり、文政2年(1819年)5月に矩賢の隠居により家督を譲られた。襲封早々に江戸藩邸が焼失したほか、先代、先々代同様幕府公役を務めたために財政は悪化した。
天保元年12月25日に江戸において45歳で死去した。

亀井茲方 かめいこれかた
1817~1846(文化14~弘化3)、幼名桂次郎、従五位下、能登守
石見津和野4万3千石

先代茲尚の三男として文化14年に江戸で生まれ、父茲尚の死去により天保2年(1831年)に家督を継いだ。同年8月に米価高騰により長州領内で一揆が起きると、国境警備に務めた。
また同年5月より桜田組防火役を務め、天保5年(1834年)には江戸城二の丸修理手伝いを命ぜられ藩財政はさらに逼迫した。さらに天保7年(1836年)には領内が大洪水に見舞われている。
天保8年(1837年)には武器奉行・細工奉行を設置した。また画人であり豊鶴という号を称したほか、琴や碁に優れていた。天保10年(1839年)6月21日に病により家督を養子茲監に譲り隠居し、弘化3年2月9日に江戸にて30歳で死去した。

亀井茲監 かめいこれみ
1825~1885(文政8~明治18)、幼名格助、従五位下、従四位下、従四位上、正四位、従三位、従二位、隠岐守、侍従、左中将
石見津和野4万3千石

筑後久留米藩主有馬頼徳の六男として江戸で生まれ、天保10年(1839年)に先代藩主茲方の養子となり、同年6月21日に封を譲られた。天保13年(1842年)に宿老多胡丹波を隠居させて藩政の実権を握り、以後教育に力を入れる。
弘化4年(1847年)に江戸深川の下屋敷を売却して得た1万両を教育基金とし、教育改革を実施した。即ち嘉永2年(1849年)に藩校養老館に蘭医学と国学を設け、岡熊臣を登用、さらに脱藩していた大国隆正を復藩させて教師とした。
養老館は嘉永6年(1853年)に城下の大火で焼失したが、すぐに再建され規模も拡大された。安政元年(1854年)に兵制革新調査掛、軍制役所を設置し、さらに翌安政2年には藩士を選抜して親衛隊朝日組を編成した。
慶応2年(1866年)の第二次長州征伐にあたっては、長州藩の隣藩だったことから対応に苦慮し、その結果消極策を取り、幕府軍撤退後は軍目付長谷川久三郎を長州藩に引き渡し和睦した。
その後、長州藩に与し、慶応4年(1868年)に新政府参与となり、教育に秀でていたことから、神祇事務局判事、議定職神祇事務局輔、神祇官副知事などを歴任した。
明治2年(1869年)6月に版籍奉還により津和野藩知事、この後従四位上、正四位、従三位と昇叙し、明治4年(1871年)には諸藩に先立って廃藩を建白し、免官となった。明治14年(1881年)に勲三等旭日中授賞をうけ、明治18年3月18日に61歳で死去した。

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