歴史の勉強

伊丹氏といえば戦国期に摂津国川辺郡伊丹荘を本拠とする伊丹親興が著名であり、信長が足利義昭を奉じて上洛した際に、信長に協同して畿内で勢力を誇った戦国大名三好氏を攻めたが、のちに信長と不和になり攻め滅ぼされる。
この伊丹氏の出自は、藤原利仁流加藤氏とされるが、江戸時代に大名となった伊丹氏も同様の出自としている。
したがって同族ということになるが確証はなく、江戸期の伊丹氏と戦国期の伊丹氏が同族かどうかも明らかでない。
江戸期の大名となった伊丹氏は、伊丹康直の三男康勝に始まる。康勝は二代将軍秀忠に近侍した後、三代将軍家光にも仕え、その行政手腕を認められて甲斐国山梨郡徳美で大名となったが、四代目の勝守が発狂して自殺し領地は没収され絶家となった。

徳美藩史

伊丹康勝 いたみやすかつ
1575~1653(天正3~承応2)、幼名喜之助、従五位下、播磨守
甲斐徳美1万2千石

武田氏の家臣であった伊丹康直は、武田氏滅亡後家康に仕えてその旗本となって、御船奉行などを勤めた。康勝はその康直の三男として生まれ、将軍秀忠に仕えて御納戸頭となり5百石を与えられる。
大坂の陣では兵糧の輸送を担当し、元和8年(1622年)本多正純改易の際は宇都宮城受取に活躍し、その後は家光に付属し、加増されて寛永5年(1628年)には下総国相馬郡で9千石を領するまでになった。
寛永9年(1632年)勘定奉行、翌10年2月に甲府城番となって3千石を加増された。同時に下総の所領を甲斐に移され、甲斐国山梨郡三日市場村十組に陣屋を設け、徳美藩を立藩した。
その後康勝は甲府城番のまま勘定奉行兼帯、さらに佐渡支配及び金山奉行になったために、用務繁多により甲府勤番を免ぜられた。
行政手腕に長けていたらしく、寛永14年(1637年)島原の乱の際には品川から駿府までの人馬等の輸送を担任したほか、寛永18年(1641年)生駒高俊改易、寛永20年(1643年)の加藤明成改易の際の処理などにも従事し、承応2年6月3日79歳で死去。

伊丹勝長 いたみかつなが
1603~1662(慶長8~寛文2)、幼名作十郎、従五位下、播磨守
甲斐徳美1万石

先代康勝の長子として生まれ、二代将軍秀忠に近侍したあと、寛永10年(1633年)に用務繁多の父に代り甲府城番となる。
慶安3年(1650年)勘定奉行次いで佐渡奉行を兼ねる。承応2年(1653年)に父康勝死去により家督を継いだ。家督相続の際に弟岡部勝重に2千6百石余りを分知し、徳美藩は1万石となる。
寛文2年3月27日に駿府代官であった一色内蔵助直正を吟味中に直正に刺殺された。

伊丹勝政 いたみかつまさ
1626~1691(寛永2~元禄4)、幼名五左衛門、従五位下、大隈守
甲斐徳美1万石

先代勝長の長子として生まれ、寛文2年(1662年)父勝長が駿府代官一色直正に刺殺され、勝政は伊丹家の家督を相続。
甲斐黒川金山支配を命ぜられたとあるほかは治績等は一切不明である。元禄4年7月15日、66歳で死去した。

伊丹勝守 いたみかつもり
1673~1698(延宝元~元禄11)、幼名竹之助
甲斐徳美1万石

先代勝政の長子として生まれ、元禄4年(1691年)に父勝政死去により家督を継いだが、元禄11年26歳のとき、発狂して厠で自殺し、領地は没収された。勝守には男子なく、これにより伊丹家は絶家となった。

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