歴史の勉強

安倍倉橋麿の後裔で、三河の国人安倍定吉の妾女某は定吉の子を身篭ったまま、信濃源氏の裔という井上清宗に嫁し、やがて生まれた子は半右衛門清秀と名乗り、清宗の嗣を継いで井上氏を称した。
清秀は大須賀康高に仕えて遠州横須賀城を守備し、またその妻は秀忠の乳母として召されたという。清秀の三男正就は徳川秀忠に仕えた。
正就は板倉重宗、永井尚政とともに秀忠近侍の三臣とされて秀忠の信任が厚く、元和元年(1615年)に大名に取り立てられ、その後も枢機に関わり元和8年(1622年)には5万2千石の遠州横須賀城主となった。
この間に老中に就任したが、江戸城内で刃傷を受けて死去し、嫡子正利が封を継いだ。正利以後も譜代大名として幕政に関わることが多く、そのために転封も多く、横須賀から常陸笠間、美濃郡上、丹波亀山、常陸下館、常陸笠間、陸奥磐城平、遠江浜松、陸奥棚倉、上野館林、遠江浜松と移る。
慶応4年(1868年)5月徳川家の駿河・遠江入封により、同年9月に上総舞鶴に移されて明治維新を迎えている。
また正就の弟政重も秀忠に仕えて1万石を得て下総高岡藩井上家を興し、正利の子正任の三男正長も分家を興している。

政重系井上氏のページ
正長系井上氏のページ

井上正就 いのうえまさなり
1577〜1628(天正5〜寛永5)、幼名半九郎、従五位下、主計頭
遠江横須賀5万2千5百石

天正5年に井上清秀の三男として生まれ、天正17年(1589年)17歳の時に秀忠に近侍して、采地150石を与えられた。
慶長19年(1614年)大坂冬の陣には歩行頭として秀忠に供奉し、元和元年(1615年)には従五位下主計頭に叙任し、1万石となって諸侯に列し、小姓組番頭となる。
同年の大坂夏の陣でも活躍し、元和3年(1617年)には奉行人に登用され、元和8年(1622年)下野、武蔵、近江、遠江国内で計5万2千5百石をもって遠江横須賀に封ぜられた。
同年12月に老中となるが、寛永5年8月10日に江戸城西の丸において目付豊島刑部少輔信満に斬りつけられて殺害された。
原因は正就の嫡子正利と大坂町奉行島田直時の女との縁談を、豊島信満が間に立って進めていたところ、正就によって破談にされた遺恨といい、この事件で豊島家は断絶となった。

井上正利 いのうえまさとし
1606〜1675(慶長11〜延宝3)、幼名大学助、従五位下、河内守
遠江横須賀4万7千5百石→常陸笠間5万石

先代正就の嫡子で、寛永3年(1626年)の秀忠上洛の際には父正就とともに供奉の列に加わっている。
寛永5年(1628年)8月に父正就が江戸城西の丸での刃傷により殺害され、同年10月その遺領を継いだ。そのときに弟正義に5千石を分知している。
正利は横須賀城下の整備や城内の普請を行い、父正就の菩提寺本源寺を創建した。正保2年(1645年)奏者番に列して2千5百石加増の上、常陸笠間に転封された。万治元年(1658年)には寺社奉行となった。
笠間では城郭整備にあたったほか、領内検地を行い藩政の基礎を固め、領内寺社の保護に務めた。
寛文7年(1667年)寺社奉行を辞し、寛文9年(1669年)6月15日に子の正任に封を譲り隠居し、延宝3年11月8日に70歳で死去した。

井上正任 いのうえまさとう
1630〜1700(寛永7〜元禄13)、幼名大学助、従五位下、相模守、中務少輔
常陸笠間5万石→美濃郡上5万石

先代正利の長男で、寛文9年(1669年)6月に父正利の隠居によって封を継いだ。このとき弟正信に新田2千石、同正興に千石を分与する。
同年9月に奏者番となるが、延宝2年(1674年)6月に申次の誤りにより蟄居、翌3年4月に許される。
天和3年(1683年)江戸城三の丸修理手伝い、貞享2年(1685年)から御家騒動により改易された越後高田城在番。元禄5年(1692年)11月12日美濃郡上郡、越前大野郡に所領を移され美濃郡上5万石に転封となった。
翌元禄6年(1693年)9月2日に嫡子正岑に封を譲り隠居し、元禄13年2月16日に71歳で死去した。

井上正岑 いのうえまさみね
1653〜1722(承応2〜享保7)、幼名巳之助、従五位下、従四位下、大和守、河内守、侍従
美濃郡上4万7千石→丹波亀山4万7千石→常陸下館5万石→常陸笠間5万石→常陸笠間6万石(加増)

先代正任の二男で、兄正幸が病を得たために兄に代わり嫡子となり、元禄6年(1693年)父正任の隠居により家督を継いだ。このとき弟正長に3千石を分与し、正長はのちに加増され常陸下妻で大名となった。
元禄8年(1695年)12月に奏者番、翌元禄9年10月に寺社奉行兼帯となり、元禄10年(1697年)6月10日に丹波亀山に転封となる。
元禄12年(1699年)10月に若年寄となり、元禄15年(1702年)9月3千石加増の上常陸下館へ転封となたったが、城地が狭いために即日常陸笠間に移る。
宝永2年(1705年)に老中となり、同年12月に従四位に昇任、翌宝永3年12月に侍従となった。正徳5年(1715年)東照宮百回忌法要総奉行、享保3年(1718年)1万石加増。享保7年5月17日に70歳で死去した。

井上正之 いのうえまさゆき
1696〜1737(元禄9〜元文2)、幼名繁之助、従五位下、河内守
常陸笠間6万石

旗本酒井重英の長男として元禄9年に生まれ、宝永元年(1704年)10月11日に9歳で先代正岑の養子となり、はじめ正伸、ついで正如と称した。
享保7年(1722年)に正岑の死去により家督を継ぐ。享保9年(1724年)2月に奏者番、享保13年(1728年)7月寺社奉行兼帯。元文2年9月17日に42歳で死去した。

井上正経 いのうえまさつね
1725〜1766(享保10〜明和3)、従五位下、従四位下、河内守、大和守、侍従
常陸笠間6万石→陸奥磐城平6万石→遠江浜松6万石

先代正之の長男として笠間で生まれ、はじめ正賢と称す。元文2年(1737年)9月に父正之が死去したために家督を相続した。
延享4年(1747年)に封地を陸奥菊田、磐城、磐前、伊達4郡内に移され磐城平へ転封となる。宝暦2年(1752年)8月奏者番、翌宝暦3年3月寺社奉行兼帯となり宝暦6年(1756年)大坂城代となった。
このとき従四位下に昇任し、封地を摂津西成・島下、河内渋川・丹北・石川・古市、播磨加西・赤穂・多可・美嚢・加東、近江蒲生・野洲郡内に移される。
宝暦8年(1758年)京都所司代、侍従となり同年12月に遠江浜松に移る。宝暦10年(1760年)12月に老中に就任。宝暦13年(1763年)3月13日に病により老中を辞し、明和3年5月30日に42歳で卒した。

井上正定 いのうえまささだ
1754〜1786(宝暦4〜天明6)、従五位下、河内守
遠江浜松6万石

先代正経の二男として生まれ、明和3年(1766年)5月に父正経が死去し、家督を継いだ。安永3年(1774年)12月奏者番、天明元年(1781年)閏5月寺社奉行兼帯、天明6年3月20日33歳で死去。

井上正甫 いのうえまさもと
1775〜1858(安永4〜安政5)、幼名武三郎、真之助、従五位下、河内守
遠江浜松6万石→陸奥棚倉6万石

先代正定の長男として生まれ、天明6年(1786年)3月に父正定の死去により家督を継ぐ。享和2年(1802年)11月に奏者番となるが、文化13年(1816年)に素行不良の故をもって奏者番を罷免されて陸奥棚倉6万石へ左遷された。
正甫は密夫大名と噂されるほど悪評が高く、棚倉転封後も病気を理由に一度も帰国せず、文政3年(1820年)4月16日に嫡子正春に封を譲り隠居、安政5年84歳で病没した。

井上正春 いのうえまさはる
1806〜1847(文化3〜弘化4)、幼名武丸、亀丸、従五位下、従四位下、河内守、侍従
陸奥棚倉6万石→上野館林6万石→遠江浜松6万石

先代正甫の長男として江戸で生まれる。文政3年(1820年)4月に父正甫の隠居によって襲封した。文政12年(1829年)6月奏者番、天保4年(1833年)4月に寺社奉行兼任となる。天保7年(1836年)3月12日に上野館林に転封となった。
天保9年(1838年)4月に大坂城代となり、従四位下に叙せられた。天保11年(1840年)11月に西の丸老中、天保14年(1843年)正月に病気により辞任。
弘化2年(1845年)11月30日に遠江浜松に転封となるが、一説には館林藩主時代に矢田川治水工事と参勤交代による財政難のために苛酷な貢租を掛け、そのために農民が逃散したり土地を質に入れたりし、それが幕府に聞こえたのが転封の原因という。
浜松転封の2年後、弘化4年2月12日に42歳で死去した。

井上正直 いのうえまさなお
1837〜1904(天保8〜明治37)、幼名英之助、従四位下、河内守、侍従
遠江浜松6万石→上総鶴舞6万石

先代正春の四男としてまれ、弘化4年(1847年)に父正春の死去により家督を継いだ。
安政5年(1858年)10月奏者番、文久元年(1861年)3月寺社奉行兼任。同年閏8月に奏者番廃止により奏者番を免ぜられる。
同文久元年(1861年)10月に老中に就任、文久3年(1863年)に外国御用取扱となり横浜開港問題などにあたる。
元治元年(1864年)7月に老中を罷免されるが、翌慶応元年(1865年)11月に老中再任。将軍家茂の第二次長州征伐に供奉し、外国御用取扱となり、さらに勝手入用掛も兼任するが、慶応3年(1867年)6月に老中を罷免された。
戊辰戦争では早くから勤皇派で、慶応4年(1868年)2月には浜松に帰国して新政府軍通過に力を尽くす。
同年5月に徳川家の駿河・遠江入封により、同年9月21日に上総鶴舞6万石に移封となり、封地は上総市原、山辺、埴生、長柄郡内となった。
明治2年(1869年)版籍奉還により鶴舞藩知事となり明治維新を迎えた。明治37年3月9日67歳で没した。

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