歴史の勉強

市橋氏の出自に関しては、大和源氏の祖となった源頼親の後裔といわれるから、清和源氏頼親流ということになり、頼親から六代の孫の成田光治が承久の乱(後鳥羽上皇が鎌倉幕府倒幕を企てた兵乱)に武功を挙げ、美濃国池田郡市橋庄地頭に補され、実際に市橋庄に下った弟光重が市橋を称したとする。
一方で戦国期に市橋利治が嗣子なくして没し、公家の三条家の庶流から養子を迎え、利尚と名乗り家を継いだ。この庶流とは西園寺流の池坊氏という説があるが、これをもって市橋氏は藤原氏とする説もある。
戦国期の長利は土岐氏、斎藤氏に仕え、やがて美濃に進出してきた織田氏に仕えた。長利の子の長勝は秀吉に仕えたて美濃今尾1万石を与えられた。
関ヶ原役では東軍に属し、戦後は伯耆矢橋(八橋)2万1千石、大坂の陣後はその功により越後三条4万1千石となったが無嗣断絶となる。甥の長政に名跡の継嗣が認められ、近江仁正寺藩2万石となり明治に至った。

市橋長勝 いちはしながかつ
1557~1620(弘治3~元和6)、従五位下、下総守
美濃今尾1万石→伯耆矢橋(八橋)2万1千石→越後三条4万1千石

弘治3年に美濃国安八郡福束城で市橋長利の長男として生まれた。父とともに織田信長に仕え、のちに秀吉に仕えて天正12年(1584年)に福束城で2千5百貫を賜り、天正17年(1589年)には今尾で1万石を得た。
小田原征伐に参陣し、文禄慶長の役では肥前名護屋に在陣する。秀吉没後は家康に属し、関ヶ原役では西軍所属の丸毛氏の拠る旧領福束城を落し、戦後1万石を加増され、慶長15年(1610年)には中村氏改易の後の伯耆矢橋2万1千3百石(2万3千石とも)に転封となる。
大坂両陣に活躍し、元和2年(1616年)8月に越後三条4万1千3百石(4万3千石とも)に移る。
家康の信頼が篤かったらしく、同年に堀直寄、松倉重政、桑山一直、別所吉治らとともに病床にあった家康のもとに呼ばれ、後事を託されている。
元和6年3月17日に64歳で死去し、無嗣のために所領は没収されたが、長勝の老中宛の必死の嘆願書等による工作や家康の信任篤かったことなどから、特に甥の長政に相続が認められて、近江仁正寺2万石が改めて与えられた。

市橋長政 いちはしながまさ
1575~1648(天正3~慶安元)、幼名左京、従五位下、伊豆守、下総守
近江仁正寺2万石

天正3年に林右衛門左衛門の三男として美濃で生まれた。母は市橋長利(先代長勝の父)の女で、長勝には甥にあたる。旗本として秀忠に仕え、のちに長勝に従ったらしい。長勝の越後時代には、3千石で別家していたという。
元和6年(1620年)に市橋家当主の長勝が無嗣で没し所領は没収されたが、長勝の老中宛の必死の嘆願書等による工作や家康の信任篤かったことなどから、長政に家督相続が認められ近江国蒲生、同野洲、河内国交野の各郡内で2万石を与えられ、蒲生郡仁正寺に陣屋を置いた。
元和8年(1622年)に2千石を女婿の市橋長吉に分与し、所領は1万8千石となる。寛永5年(1628年)大坂城石垣普請、寛永10年(1633年)海内諸国巡見役、翌寛永11年多賀神社社殿造営奉行、寛永12年~16年(1635~9年)に上方御料所郡奉行などを歴任し、慶安元年2月11日に74歳で死去した。

市橋政信 いちはしまさのぶ
1623~1704(元和9~宝永元)、幼名兵吉、従五位下、下総守
近江仁正寺1万8千石

先代長政の長男として江戸で生まれ、慶安元年(1648年)に父長政の死去により家督を継いだ。このとき弟政直に千石を分与し、所領は1万7千石となる。
延宝7年(1679年)に駿府城加番、元禄11年(1698年)京都警護などを勤め、宝永元年正月1日に82歳の高齢で死去。

市橋信直 いちはしのぶなお
1656~1720(明暦2~享保5)、幼名三左衛門、伝左衛門、従五位下、下総守
近江仁正寺1万7千石

先代政信の弟政直の長男で、旗本として将軍家綱に仕え、天和元年(1681年)には御書院番となる。
元禄年間に病弱であった市橋利政に代り先代政信の養嗣子となり、宝永元年(1704年)の政信死去により襲封した。治世16年にして享保5年2月26日に仁正寺において死去した。享年65。

市橋直方 いちはしなおかた
1689~1750(元禄2~寛延3)、幼名主計、従五位下、壱岐守
近江仁正寺1万7千石

越後新発田藩主溝口重雄の三男として新発田に生まれ、宝永2年(1705年)に先代信直の養子となった。
享保5年(1720年)に信直が死去し、同年4月26日に封を継承した。享保15年(1730年)3月大番頭となるが、同18年5月に病により辞職、元文元年(1736年)5月25日に封を養子直挙に譲り隠居、剃髪して享山と号した。寛延3年9月11日、62歳で死去した。

市橋直挙 いちはしなおたか
1712~1802(正徳2~享和2)、幼名万次郎、友太郎、従五位下、下総守
近江仁正寺1万7千石

筑後三池藩主立花直明の二男種盈の子として生まれ、享保13年(1728年)に先代直方の婿養子となった。元文元年(1736年)5月に直方が隠居し、家督を継いだ。
宝暦8年(1758年)11月24日に養子長璉に家督を譲り隠居し、寛政2年(1790年)には剃髪して体山と号した。
享和2年4月7日に江戸において91歳で死去。和歌を好んだという。

市橋長璉 いちはしながてる
1733~1785(享保18~天明5)、幼名豊三郎、従五位下、伊豆守
近江仁正寺1万7千石

豊後臼杵藩主稲葉薫通の二男で、宝暦5年(1755年)2月11日に先代直挙の養子となり、宝暦8年(1758年)11月に直挙の隠居により藩主となった。長輝ともいう。
明和5年(1768年)に北野天満宮を勧請して修学の神とした。天明5年10月6日に仁正寺において53歳で没した。

市橋長昭 いちはしながあき
1773~1814(安永2~文化11)、幼名韶之助、従五位下、下総守
近江仁正寺1万7千石

先代長璉の長男として安永2年に江戸で生まれ、天明5年(1785年)に長璉が没したので家督を継いだ。
聡明であり学問を好んだといわれ、寛政8年(1796年)に藩校日新館を創設、文武を奨励した。西生懐忠に命じて地誌「蒲生旧址考」を編纂させ、藩士には武術を訓練した。
享和3年(1803年)には大砲の訓練もはじめたといい、その事績から仁正寺藩中興の英主といわれるが、文化11年9月27日に42歳で世を去った。

市橋長発 いちはしながはる
1805~1822(文化2~文政5)、幼名鈊次郎、従五位下、伊豆守
近江仁正寺1万7千石

先代長昭の長男として文化2年に江戸で生まれ、文化11年(1814年)に父長昭の死去により10歳で家督を継いだが、生来病弱なため文政5年正月晦日、18歳で仁正寺において死去した。

市橋長富 いちはしながとみ
1805~1859(文化2~安政6)、従五位下、主殿頭
近江仁正寺1万7千石

出羽庄内藩主酒井忠徳の四男として生まれ、文政5年(1822年)に先代長発の養子となり、封を継いだ。
天保14年(1843年)に砲術の大家高島秋帆を預けられ、このことが仁正寺藩の砲術訓練に大いに寄与したという。
弘化元年(1844年)10月7日に養子長和に家督を譲り隠居し、安政6年11月20日に55歳で死去した。

市橋長和 いちはしながかず
1821~1882(文政4~明治15)、幼名鋼三郎、従五位下、正五位、正四位、下総守、壱岐守
近江仁正寺1万7千石

出羽庄内藩主酒井忠器の四男として生まれ、先代長富の養子となり、弘化元年(1844年)10月の長富隠居により封を譲られた。
嘉永6年(1853年)のペリー来航以降、藩士の訓練強化や火薬の製造などに取組んだ。文久2年(1862年)には西大路藩と改称した。
翌文久3年には和泉国高石の海岸警備を命ぜられた。元治元年(1864年)には京都警護役となった。
当初は佐幕であったが、その後新政府軍に帰順し、鳥羽伏見の戦いには官軍側として参加し、戊辰戦争では東山道鎮撫使に属して奥羽地方にまで転戦した。
明治元年(1868年)には天皇の東京行幸の奉送にあたり、その後は京都警護を担任した。
明治2年(1869年)に版籍奉還により西大路藩知事、同4年には廃藩置県により免官となり東京に移り、明治15年正月17日に62歳で没した。

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