歴史の勉強

天武天皇の皇子高市親王の子孫高階泰経の曾孫邦経が、尾張国丹羽郡供御所村(御供所村)を領し、さらにその子孫が忠泰が堀尾姓を称したというのが、系図における堀尾氏の出自である。
忠泰についても時代的にはいつのことか判明しておらず、系図自体がもとより資料等に裏打ちされたものではないのは、ほかの豊臣大名と同様である。
しかし尾張国に比較的古くから住していたのは事実のようで、尾張守護斯波氏、さらには織田氏に仕えたという。
戦国末期に吉晴が豊臣秀吉に仕え、天正18年(1590年)に遠江浜松12万石を与えられ、関ヶ原役では東軍に属して出雲・隠岐両国で24万石を得たが、吉晴の孫忠晴が嗣子なくして死去し断絶となった。

堀尾吉晴 ほりおよしはる
1534〜1611(天文12〜慶長16)、幼名仁王丸、正五位下、帯刀、従四位下
遠江浜松12万石

尾張国丹羽郡供御所村(御供所村)において、堀尾泰晴の長男として生まれ、通称は小太郎、長じて茂助という。
父泰晴は岩倉織田氏に仕えており、吉晴も同様であった。初陣は永禄2年(1559年)の岩倉城の戦いで、このときに一番首を取ったものの岩倉織田氏は弾正忠織田家によって滅ぼされ、浪人となった。
その後弾正忠織田家の信長に仕え、すぐに信長家臣の秀吉に属す。秀吉のもとで多くの戦いに参陣して功名を挙げ、天正元年(1573年)に近江長浜領内に100石を与えられた。
その後、播磨姫路1500石、丹波黒江3500石と順調に出世し、天正10年(1582年)の備中高松城水攻めでは、開城の際の敵将清水宗治の検死役を務めた。
直後の山崎の戦で鉄砲頭を務めて功を挙げ、戦後丹波黒井で6284石、翌天正11年(1583年)には若狭国高浜1万7千石を与えられ大名となった。
天正13年(1585年)に豊臣秀次付きとなり、近江佐和山4万石を与えられた。九州征伐、小田原征伐にも参陣し、家康の関東移封後は関東の押さえとして遠江浜松12万石を与えられた。
その後中村一氏、生駒親正とともに中老職を努める。中老は五大老・五奉行間の意見調整、諸大名の紛争の調停と探索をもっぱらの役目とした。
秀吉没後の家康の数々の策動で、三中老は大老や奉行、諸大名間を駆け回ったが、もともと役割が抽象的な上に権限もほとんどなく、期待通りに機能しなかった面がある。しかし秀吉の信任が篤かったことは事実であろう。
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると家康に接近し、翌慶長4年には高齢を理由に世子忠氏に家督を譲り隠居した。隠居領(隠居領ではないとの説もある)として越前府中5万石を与えられた。
関ヶ原役では東軍に与したが、本戦直前の慶長5年(1600年)7月に三河国池鯉鮒において刃傷事件に巻き込まれて負傷した。
これは池鯉鮒にて宴会中に、三河刈谷城主水野忠重が美濃加賀井城主加賀井重望に突然襲われて斬られ、吉晴も槍で傷を負ったものの重望を討ったという事件であった。
この事件のために吉晴は関ヶ原役には参陣できず、代って子の忠氏が指揮を執り、戦後出雲。隠岐両国24万石を与えられた。
吉晴は忠氏とともに出雲富田城に入り、松江築城に着手するが慶長9年(1604年)に忠氏が急逝、忠氏の子の忠晴がわずか6歳で家督を継ぎ、吉晴が後見した。
後見とはいえ、事実上は吉晴が藩政を仕切り松江築城、検地、領民支配体制の確立など藩政基礎を確立した。
また、慶長14年(1609年)の豊臣秀頼の意を受けて片桐且元とともに出雲大社の造営奉行を務めた。
慶長16年(1611年)に松江城が完成して移転の直前、同年6月17日に69歳で死去した。

堀尾忠氏 ほりおただうじ
1577〜1604(天正5〜慶長9)、幼名弥介、従四位下、信濃守、出雲守
遠江浜松12万石→出雲松江(富田)24万石

堀尾吉晴の二男として生まれ、兄金助が早世したために嫡子となった。慶長4年(1599年)に父吉晴が隠居し家督を相続したとされるが、吉晴は隠居していないとする説もある。
吉晴は豊臣政権の中老のひとりとして政務に忙しく、為に浜松藩政を忠氏に、吉晴自身は中央にあって政務に、という分担とし吉晴の賄領として越前府中5万石が与えられたというものである。
これらにより関ヶ原後の出雲移封も吉晴に対して与えられたか、忠氏に対してのものか、父子に賜ったものか三説があるが、少なくとも表向きは忠氏が当主であり、関ヶ原役に参陣したもの忠氏であったことから出雲移封のときの当主は忠氏であるとの説が有力である。
関ヶ原役の際に忠氏が参陣したのは、吉晴が三河池鯉鮒にて刃傷事件に巻き込まれて重傷を負ったためであった。
なお、この時の小山軍議の際に山内一豊が、掛川城を兵糧とともに家康に差し出す発言をして、これがもとで諸将は雪崩を打って家康に味方したが、このアイデアはもともと忠氏のものであり、軍議に向う際に忠氏が一豊に語ったために一豊に横取りされた話は有名である。
ともあれ忠氏は、関ヶ原役の功で出雲、隠岐両国24万石に移封され、戦国大名尼子氏の居城であった富田城に入った。
しかし富田城は城下が狭い上に、領地の西方に偏りすぎるために慶長8年(1603年)に宍道湖畔に新城を築くこととした。
新城地選定にあたって忠氏は亀田山を主張したが、吉晴は荒和井山を主張して意見が対立した。その状態のまま、忠氏は翌慶長9年8月4日に28歳で急逝し、吉晴は忠氏の遺志を継いで亀田山に新城地を決定したという。

堀尾忠晴 ほりおただはる
1599〜1633(慶長4〜寛永10)、幼名三之助、従五位下、山城守、従四位下、侍従
出雲松江24万石

先代忠氏の長男として生まれた。6歳のときの慶長9年(1604年)に父忠氏が急逝したために家督を継いだが、幼少の為に祖父吉晴が後見した。
そのために忠晴の初政は実質的に吉晴の治世であった。慶長16年(1611年)に祖父吉晴が死去し、13歳で名実ともに藩主となった。
吉晴は忠晴の後見時代に松江築城、検地、領民支配体制の確立など藩政の基礎を固め、吉晴死去の直後に松江城が完成して、それまでの富田城から移転が行われた。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌元和元年の大坂夏の陣に参陣して軍功を挙げ、元和5年(1619年)の福島正則の改易の際には広島城の受け取りにあたった。
寛永10年9月20日に35歳で嗣子なくして死去し、そのために堀尾家は改易となった。

参考文献:堀尾吉晴・松江城への道(松江ふるさと文庫)、堀尾吉晴と忠氏(松江ふるさと文庫)、三百藩藩主人名事典(新人物往来社)、戦国武将合戦事典(吉川弘文館)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ
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