歴史の勉強

本庄氏は、摂関家の二条家の臣であった太郎兵衛宗正の養女光子(のちに桂昌院)が三代将軍家光の側室となり、五代将軍綱吉の生母となったことで取り立てられた。
すなわち、桂昌院の実弟宗資は元禄元年(1688年)に下野国内で1万石を与えられて諸侯に列し、その子の資俊のときには松平姓を賜った。
一方、桂昌院の義兄道芳の子の道高は4千石の旗本となり、その子の道章のときに加増されて1万石となり美濃高富藩主となった。道章の系統には松平姓は下賜されていない。
両系統とも明治維新まで大名として続くが、その祖の太郎兵衛宗正は武蔵国児玉党系と自称する。
児玉党とは平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団の一つで、その旗頭であった庄氏のうち、地元に残った一族が鎌倉時代初期に本庄氏を名乗ったことに始まる。
本庄とは地元(本貫)に残った庄の意味で、その一族が居館を構えたのが埼玉県本庄市である。もっとも宗正の出自が児玉党本庄氏であった確証はまったくなく、無理やり系図を創作したことは確実とされている。

本庄松平家のページ
宗長系本庄松平家のページ

本庄道章 ほんじょうみちあきら
1683〜1725(天和3〜享保10)、幼名太郎吉、従五位下、和泉守、宮内少輔
美濃高富1万石

「みちあき」とも読む。祖父道芳は五代将軍綱吉の生母桂昌院の義兄にあたり、綱吉に仕えて家老となり、父道高のときに上野国新田、邑楽両郡、美濃国各務郡、下野国梁田郡内に合わせて4千石を賜った。
道高没後の元禄10年(1697年)7月11日に家督を相続し、元禄12年(1699年)中奥小姓、元禄16年(1703年)小姓となった。
宝永2年(1705年)3月23日、美濃国山県、方県両郡で6千石が加増され諸侯に列し、最初陣屋を各務郡岩滝村に置いたが、宝永6年(1709年)8月に山県郡高富村に移し、ここに高富藩が成立した。
道章の大名取立は桂昌院の威光によるもので、道章は享保10年7月27日に43歳で死去するが、その孫は明治維新まで十代に渡り高富藩主を継承する。

本庄道矩 ほんじょうみちのり
1709〜1745(宝永6〜延享2)、幼名久太郎、従五位下、大和守
美濃高富1万石

先代道章の長男として生まれ、享保10年(1725年)に父道章の死去により襲封した。享保13年(1728年)、同16年(1731年)、同17年(1732年)に日光祭礼奉行、享保14年(1729年)大坂加番、元文元年(1736年)大番頭、延享2年9月8日に37歳で没。

本庄道倫 ほんじょうみちとも
1720〜1756(享保5〜宝暦6)、幼名金三郎、従五位下、和泉守
美濃高富1万石

旗本松平信晴の三男で、延享2年(1745年)9月に先代道矩の急養子となり、その死去により家督を継いだ。
延享4年(1747年)日光祭礼奉行、翌延享5年大坂加番、宝暦6年5月20日に37歳で死去。

本庄道堅 ほんじょうみちかた
1733〜1760(享保18〜宝暦10)、幼名左膳、従五位下、大和守
美濃高富1万石

信濃小諸藩主牧野康周の二男として小諸で生まれ、宝暦6年(1756年)5月に先代道倫の急養子となり、その死去により家督を継いだ。
宝暦7年(1757年)に日光祭礼奉行、宝暦9年(1759年)に大坂加番などを勤めるが、宝暦10年4月26日に28歳の若さで死去した。

本庄道信 ほんじょうみちのぶ
1748〜1766(寛延元〜明和3)、幼名熊次郎、従五位下、大和守
美濃高富1万石

上総大多喜藩主松平(大河内)正温の二男で、宝暦10年(1760年)4月に先代道堅の急養子となり、その死去により家督を継いだ。
明和3年(1766年)に日光祭礼奉行を勤めたが、同年12月18日に19歳の若さで死去した。

本庄道揚 ほんじょうみちあき
1753〜1771(宝暦3〜明和8)、幼名音次郎、従五位下、山城守
美濃高富1万石

三河吉田藩主松平(大河内)信復の三男で、明和3年(1766年)12月に先代道堅の急養子となり、その死去により家督を継いだ。
明和7年(1770年)に日光祭礼奉行を勤めたが、同年に凶作が原因で領内10ヶ村の名主が退役願いを出すなど、藩政の混乱が続いた。しかし道揚は翌明和8年10月18日に18歳の若さで、江戸において死去してしまう。

本庄道利 ほんじょうみちとし
1754〜1805(宝暦4〜文化2)、幼名佐三郎、従五位下、伊勢守、甲斐守、織部正
美濃高富1万石

旗本松平信直の二男として生まれ、明和8年(1771年)に先代道揚の急養子となり、その死去により家督を継いだ。初名を道達という。
安永2年(1773年)日光祭礼奉行、安永4年(1775年)大坂加番、安永9年(1780年)大番頭、天明7年(1787年)に伊勢守を甲斐守に改める。
寛政3年(1791年)伏見奉行、寛政7年(1795年)奏者番となるが、寛政12年(1800年)病により辞任する。
享和元年(1801年)6月21日に嫡子道昌に家督を譲り隠居し、織部正に改めた。文化2年5月23日に江戸において52歳で卒した。

本庄道昌 ほんじょうみちまさ
1771〜1823(明和8〜文政6)、幼名時之助、従五位下、近江守、式部少輔、河内守
美濃高富1万石

先代道利の長男として生まれたが、虚弱であったために実家の松平家で養育され、天明5年(1785年)に道利の嗣子となった。
享和元年(1801年)6月に父道利の隠居により家督を継ぎ、翌享和2年日光祭礼奉行、享和3年大番頭となり、文化3年(1806年)に近江守を式部少輔に改めた。
また同年には陣屋の新造に着手したが、藩財政は厳しく、幕府からの借入金も2万両を越えたとされる。
文政2年(1819年)3月22日に病により養嗣子道貫に家督を譲り隠居し、文政6年正月25日に53歳で江戸にて死去した。

本庄道貫 ほんじょうみちつら
1797〜1858(寛政9〜安政5)、幼名陽之助、従五位下、遠江守、伊勢守、安芸守
美濃高富1万石

三河吉田藩主松平(大河内)信明の四男で、先代道昌の養子となり、文政2年(1819年)3月に道昌の隠居により家督を継いだ。
同年9月に日光祭礼奉行、文政6年(1823年)大番頭、文政10年(1827年)伏見奉行、天保4年(1833年)に奏者番、天保12年(1841年)若年寄となる。
藩政では財政悪化が著しく、文政2年に襲封すると農民には植林を命じ、家中には厳しい倹約令を布れた。嘉永3年(1850年)には目安箱を設置し、増税を伴う藩政改革を実施したが、領民の抵抗運動にあった。
安政5年(1858年)8月23日に病により若年寄を辞したが、許される前の同月26日に62歳で死去した。

本庄道美 ほんじょうみちよし
1820〜1876(文政3〜明治9)、幼名藤丸、従五位下、近江守、宮内少輔
美濃高富1万石

先代道貫の長男として生まれ、安政5年(1858年)に父道貫の死去により家督を継ぐ。
翌安政6年大番頭、文久3年(1863年)二条城定番となる。藩政では先代道貫からの藩政改革を引き継いだが財政は好転せず、慶応2年(1866年)には藩札を乱発、さらに農民からの収奪を厳しくしたために慶応4年(1868年)には一揆が起きた。
同年からの戊辰戦争では新政府軍側に立ち、新政府軍の中山道通行にあたっては苗木藩とともに協力し、さらに御所番を勤めた。
明治2年(1869年)に版籍奉還により藩知事、明治4年(1871年)廃藩置県により免官、明治9年7月17日に57歳で没した。

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