歴史の勉強
(本庄松平家)

五代将軍綱吉の生母桂昌院(於玉の方)は、鷹司信房の女が三代将軍家光に嫁した際に従い、のちに家光の側室となって綱吉を産んだ。
桂昌院の義弟本庄宗資は綱吉が将軍となると召し出されて旗本となった。数度の加増の後、元禄元年(1688年)に下野足利1万石の大名となった。
その後、翌元禄2年に1万石加増、元禄5年(1692年)には2万石加増のうえ常陸笠間に転封、同7年にも1万石を加増され、二代資俊が継いだときには5万石を領していた。
資俊は元禄12年(1699年)に2万石加増され、7万石で遠江浜松に移されて、宝永2年(1705年)に松平姓を賜った。四代資昌が丹後宮津7万石に転封されて定着し明治に至った

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本庄宗資 ほんじょうむねすけ
1629〜1699(寛永6〜元禄12)、幼名平四郎、従五位下、因幡守、従四位下、侍従
下野足利1万石→常陸笠間4万石

寛永6年に本庄宗正の二男として京で生まれる。明暦2年(1656年)12月に姉桂昌院の実子であった館林藩主徳川綱吉に仕えて奏者役となり、延宝8年(1680年)に綱吉が将軍となると、その嫡子徳松に従って西の丸に入る。
これ以後、桂昌院と綱吉は宗資を引き立てるべく加増を繰り返した。天和元年(1681年)3月に、これまでの蔵米8百俵に千2百石を加増されたうえ、蔵米から知行に改められ常陸国内に2千石を賜った。
天和3年(1683年)3千石、貞享元年(1684年)従五位下、因幡守に任じられ、元禄元年(1688年)み下野国に足利郡に5千石を加増されて諸侯に列して、常陸の所領も足利郡に移されて足利藩を立藩した。
元禄2年(1689年)1万石加増、翌元禄3年従四位下に叙任、元禄5年(1692年)綱吉を江戸屋敷に迎え2万石加増され常陸笠間に移された。
元禄7年(1694年)には1万石加増され都合5万石となり、同年侍従に任じられ、元禄12年8月16日に71歳で死去した。旧安田庭園は本庄家の下屋敷で、宗資により隅田川の水を取り入れた回遊式庭園が造られた。

松平資俊 まつだいらすけとし
1660〜1723(万治3〜享保8)、幼名辰之助、従五位下、安芸守、従四位下、豊後守、伯耆守、侍従
常陸笠間5万石→遠江浜松7万石

先代宗資の二男として江戸で生まれ、初名を宗俊という。貞享元年(1684年)に旗本に列し、元禄4年(1691年)に従五位下、安芸守に叙される。
元禄12年(1699年)8月父宗資の死去により襲封し、元禄14年(1701年)に従四位下に昇る。翌元禄15年2月19日には伯母桂昌院の位階叙任についての使者として京へ向い、同日に侍従に任じられた。
同年9月に綱吉と桂昌院を江戸屋敷に迎えて2万石を加増され、遠江浜松に移封された。宝永2年(1705年)3月23日に松平姓を賜り、安芸守を豊後守に改めた。
資俊は功績はまったくなく、藩政でも見るべきものはないが、伯母桂昌院の引き立てで栄進したものである。享保8年7月14日に64歳で死去した。

松平資訓 まつだいらすけのり
1700〜1752(享保5〜宝暦6)、幼名捨五郎、従五位下、図書頭、豊後守、従四位下、侍従
遠江浜松7万石→三河吉田7万石→遠江浜松7万石

先代資俊の正室は旗本佐野勝由の女であったが、資訓はその勝由の二男にあたる。資俊の子の宗弥が早世したために正徳元年(1711年)3月4日に資俊の養子となり、享保8年(1723年)その死去により家督を継いだ。
享保14年(1729年)2月に三河吉田に移封されたが、風水害が相次いでいる。寛保元年(1741年)に奏者番となり、翌寛保2年10月に京都所司代となって侍従に任じられ、再び浜松に移された。宝暦2年3月26日に53歳で京都において没した。

松平資昌 まつだいらすけまさ
1744〜1762(延享元〜宝暦12)、幼名豊之助、従五位下、伊予守
遠江浜松7万石→丹後宮津7万石

先代資訓の三男として三河吉田で生まれ、宝暦2年(1752年)3月資訓の死去により家督を継いだ。先代の資訓は嫡系である宗弥(先々代資俊の子)の長男資順を養子としていたが、資順が早世したために、自子の資昌を嗣子とした。
宝暦8年(1758年)12月に丹後宮津に移封されたが、病弱であったために宝暦11年(1763年)11月27日に致仕して養子資尹に家督を譲り、翌宝暦12年正月18日に19歳の若さで死去した。

松平資尹 まつだいらすけただ
1746〜1765(延享3〜明和2)、幼名定八郎、従五位下、大隈守
丹後宮津7万石

出羽庄内藩主酒井忠寄の七男として江戸で生まれ、宝暦11年(1763年)8月19日に先代資昌の養子となり、同年11月27日に家督を譲られた。しかし在封わずか2年に満たず、明和2年7月23日に20歳の若さで死去した。

松平資承 まつだいらすけつぐ
1749〜1800(寛延2〜寛政12)、幼名富次郎、従五位下、豊後守、伊予守、因幡守、伯耆守
丹後宮津7万石

上総大多喜藩主松平(大河内)正温の三男として江戸で生まれ、明和2年(1765年)7月に先代資尹の急養子となり、その死去により家督を継いだ。
安永5年(1776年)に奏者番、天明4年(1764年)寺社奉行兼帯となる。天明3年〜6年(1763〜6年)にかけて風水害などによる凶作、ことに天明4年には餓死者もでるほどの大飢饉になった。
寛政8年(1796年)11月17日に二男宗允に家督を譲り隠居し、寛政12年8月18日に52歳で死去した。

松平宗允 まつだいらむねただ
1780〜1816(安永9〜文化13)、幼名富次郎、従五位下、伯耆守、大隈守
丹後宮津7万石

先代資承の二男として江戸に生まれ、兄資統が病弱であったために代って嫡子となり、寛政8年(1796年)に資承から家督を譲られた。
初名を資貞といい、資允、宗允と改名している。文化5年(1608年)8月6日に養子資宗発に家督を譲り隠居し、文化13年6月14日に35歳で没した。

松平宗発 まつだいらむねあきら
1784〜1840(天明2〜天保11)、幼名富次郎、従五位下、伯耆守、従四位下、侍従
丹後宮津7万石

先々代資承の三男で、先代宗允の弟にあたる。兄宗允の養子となり文化5年(1608年)8月6日に宗允の隠居により家督を継いだ。
文化9年(1812年)奏者番、文政元年(1818年)8月寺社奉行兼帯、文政9年(1826年)11月大坂城代、文政11年(1828年)11月京都所司代、天保6年(1835年)6月老中となった。
藩政では文政5年(1822年)に年貢先納と人頭税実施により大規模な一揆が発生し、翌文政6年正月に一部を譲歩したうえで大庄屋や役人を処分することで決着した。
後年は大御所家斉の側近となり西の丸に侍し、天保11年8月25日に59歳で死去した。

松平宗秀 まつだいらむねひで
1809〜1873(文化6〜明治6)、幼名秀次郎、従五位下、図書頭、丹波守、伯耆守、従四位下、侍従
丹後宮津7万石

先々代宗允の三男として江戸で生まれ、先代宗発の養子となった。天保11年(1840年)に宗発が死去し家督を継いだ。
天保12年(1841年)12月奏者番となるが天保14年(1843年)閏9月に免ぜられた。弘化3年(1846年)6月に再び奏者番となり、安政5年(1858年)10月寺社奉行兼帯、万延元年(1860年)12月大坂城代、文久2年(1862年)6月京都所司代。
寺社奉行時代に井伊直弼の安政の大獄に与し、そのために所司代就任に反対する者も多く、赴任できずに2ヶ月後に職を免ぜられた。
その後元治元年(1864年)に老中となり、慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、副総督格として安芸広島に出陣した。しかし不利を悟って捕虜の長州藩家老宍戸備後介と小田村素太郎を独断で釈放し、副総督及び老中を罷免された。
さらに同年10月29日に隠居謹慎を命じられて、五男の宗武に家督を譲った。明治6年11月20日に65歳で没したが、和歌、俳句、書画に秀でていたという。

松平宗武 まつだいらむねたけ
1846〜1893(弘化3〜明治26)、幼名武通麿、従五位下、伯耆守
丹後宮津7万石

先代宗秀の五男として生まれ、慶応2年(1866年)に父宗秀が長州征伐での捕虜の独断釈放の責任を取らされて隠居したため、家督を継いだ。
戊辰戦争の際には、新政府軍に恭順して山城八幡の警備にあたっていたが、藩士が新政府軍に発砲したために朝敵とされ、山陰道鎮撫使西園寺公望に降伏、陳情して許された。
明治2年(1869年)版籍奉還により藩知事、明治4年(1871年)廃藩置県により免官となり、明治26年4月28日に48歳で死去した。

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