歴史の勉強

遠藤氏は桓武平氏千葉氏の出であり、千葉常胤の六男東(とう)胤頼を始祖とする。胤頼は千葉氏の本拠下総で東荘ほかを与えられ、その地名を姓とした。
胤頼の孫の胤行は承久の乱での戦功により、美濃国山田荘の地頭となり、その子行氏が美濃に土着した。
下って戦国時代になると美濃東氏の勢力は衰退して、変わって豪族の遠藤氏の勢力が伸張してきた。東常慶は子の常堯の不徳もあって、常堯の家督を廃して遠藤盛数を娘婿として東の家督とすることにした。
反発した常堯は常慶と盛数に対して挙兵するが、盛数の前に敗れ、盛数が東の家督を継承したが、姓は遠藤を名乗った。名字からいって遠藤氏は藤原姓であるが、これによって平氏となった。
遠藤氏は美濃が信長領となると信長に従い、関ヶ原では西軍三成方武将の多かった美濃で当初から東軍家康方に立ち、戦後は美濃郡上2万7千石となった。
郡上藩主五代の常久が無嗣で死去して一旦領地は収公されるが、祖先の功により胤親が養子に入り家督を継ぎ近江三上に移り、さらに幕末期に和泉吉見に転封された。

大名騒動録・延宝郡上騒動のページ

遠藤慶隆 えんどうよしたか
1550~1632(天文19~寛永9)、幼名三郎四郎、新六郎、従五位下、但馬守
美濃郡上2万7千石

東氏の家督となった遠藤盛数の子として生まれる。盛数は甥の胤俊(盛数の兄胤縁の子)を木越城に、自身の子の慶隆を八幡城に置いて郡上郡を二分して支配した。
盛数は永禄5年(1562年)に死去し、慶隆が13歳で郡上八幡城主となった。美濃の戦国大名斎藤龍興に属し、斎藤氏滅亡の後は織田信長に仕えた。
天正10年(1582年)の本能寺の変後は岐阜城主となった織田信孝に属したが、信孝は秀吉と対立して挙兵する。しかし秀吉に岐阜城を包囲されると和睦し、翌天正11年には柴田勝家と謀って再度挙兵するが、勝家は賤ヶ岳の戦いで敗れ信孝も降伏する。
信孝は改易後自害させられ、これによって慶隆は秀吉に属することとなった。しかし天正15年(1587年)には所領を減らされて美濃小原で7千5百石(ほかに胤俊の子の胤直に美濃犬地5千5百石)となった。
関ヶ原役では東軍に属し、飛騨の金森長近とともに西軍の郡上八幡城主稲葉貞通を攻め、この功によって戦後は郡上八幡に復して2万7千石となった。このとき犬地の胤直は西軍に属したために改易され、その所領は慶隆に与えられている。
その後、彦根、駿府、名古屋の諸城修築手伝い、大坂の陣参陣などで活躍、一方内政では八幡城修築や長尾銅山開発、寺社の保護などを行った。
寛永9年(1632年)1月秀忠の死去により、剃髪して旦斎と号したが、約2ヵ月後の同年3月21日に83歳で死去した。

遠藤慶利 えんどうよしとし
1609~1646(慶長14~正保3)、幼名三郎四郎、従五位下、伊勢守、但馬守
美濃郡上2万7千石

慶利は飛騨松倉城主三木自綱の子で、母は慶隆の女清洲であったため慶利の外孫となる。自綱は秀吉軍の金森長近に攻め滅ぼされたが、そのとき清洲の腹に宿っていたのが慶利であった。三木氏滅亡後、慶利は慶隆に引き取られて育てられた。
慶隆には慶勝という男子があったが、元和元年(1615年)大坂冬の陣の際に京都で病を発して死去した。
慶隆にはほかに男子なく、そのために外孫慶利を養子にし、寛永9年(1632年)3月に慶隆が死去すると家督を継いだ。
寛永11年(1634年)将軍家光上洛に供奉、寛永13年(1636年)朝鮮使節接待役、正保2年(1645年)駿府城在番など。正保3年6月28日に38歳で没した。

遠藤常友 えんどうつねとも
1628~1676(寛永5~延宝4)、幼名岩松、従五位下、備前守
美濃郡上2万4千石

先代慶利の長子として生まれ、正保3年(1646年)父慶利の死去により家督を継いだ。最初慶澄、その後常季と改名し、家督に際して常友と名乗る。
相続の際に慶利の遺言により弟常昭に2千石、弟常紀に千石を分与し両家は旗本に列した。
新田開発に努めたほか、城下町の整備、八幡城の修築、歌集常縁集編纂などを行い、延宝4年5月4日に49歳で死去。

遠藤常春 えんどうつねはる
1667~1689(寛文7~元禄2)、幼名外記、従五位下、右衛門佐
美濃郡上2万4千石

先代常友の子で、延宝4年(1676年)常友の死去により10歳で襲封。幼少の為に政治に乱れが生じ、家中には派閥が出来て対立し、税制も悪化した。
このために増税策がとられたが、領民の反発を招き派閥抗争とも絡んで延宝郡上騒動といわれる騒動に発展した。
騒動は紛糾したが、天和3年(1683年)に常春が対立する2つの派閥の関係者を処断して結着した。
元禄2年3月24日に23歳の若さで没したが、愛妾による毒殺説もある。

遠藤常久 えんどうつねひさ
1686~1692(貞享3~元禄5)、幼名岩松
美濃郡上2万4千石

先代常春の子で、元禄2年(1689年)に常春の死去により、わずか4歳で家督を継いだ。しかし3年後の元禄5年3月晦日に7歳で没す。
この死には陰謀説がある。元禄5年に常久が種痘に罹ると重臣池田主馬が常久を毒殺して自分の子を身代わりしようとしたが、重臣の中に反対派があって、仕方なく常久の死を幕府に届けたという。
常久には子がなく美濃郡上2万4千石は無嗣によって収公されたが、祖先の功により親戚の大垣藩主戸田氏成の養子胤親に遠藤氏の家督を継がせた。胤親は元禄5年5月に常陸・下野両国内で1万石を与えられ、さらに元禄11年(1698年)近江三上に移る。

遠藤胤親 えんどうたねちか
1683~1735(天和3~享保20)、幼名数馬、従五位下、下野守、但馬守
近江三上1万石

父は白須才兵衛政休といい、大垣藩主戸田氏成の養子となり、遠藤家の家督を継いだ。郡上藩主遠藤家五代の常久は元禄5年(1692年)にわずか7歳で病没し、嗣子がなかったために領地は収公されたが、祖先の功により胤親に遠藤氏の家督を継がせたものである。
胤親は元禄5年5月に常陸国真壁、那珂郡内・下野国芳賀、都賀郡内で合せて1万石を与えられ、さらに元禄11年(1698年)近江に移る。領地は近江国甲賀、野洲、栗太、滋賀の4郡内で野洲郡三上に陣屋を置いた。
駿府城加番、朝鮮通信使接待役、各門番、日光祭礼奉行など公役を勤め、享保18年(1733年)9月25日に病気により世子胤将に家督を譲り隠居、享保20年3月2日に53歳で病没した。

遠藤胤将 えんどうたねのぶ
1712~1771(正徳2~明和8)、幼名吉之助、従五位下、備前守
近江三上1万石

先代胤親の子で、初名は胤和(たねまさ)と名乗る。享保18年(1733年)9月に父胤親が隠居したために家督を継いだ。
延享2年(1745年)9月大番頭、明和4年(1767年)には奏者番となるが、明和8年4月12日に60歳で病没した。

遠藤胤忠 えんどうたねただ
1732~1791(享保17~寛政3)、幼名竹之助、従五位下、下野守
近江三上1万石

先々代胤親の子で、宝暦10年(1760年)6月に子がなかった兄胤将の養子となった。明和8年(1771年)に胤将の死去によって襲封した。
安永8年(1779年)4月大番頭となるが、寛政元年(1789年)閏6月に病により辞任。翌寛政2年2月20日に養子胤富に家督を譲り隠居、寛政3年10月12日に60歳で病死した。

遠藤胤富 えんどうたねとみ
1761~1814(宝暦11~文化11)、幼名陽五郎、従五位下、備前守
近江三上1万石

三河吉田藩主松平(大河内)信復の五男で、天明5年(1785年)に先代胤忠の養子となり、寛政2年(1790年)2月胤忠の隠居によって家督を継いだ。
同年12月に大番頭となるが、翌寛政3年6月に病気により辞任、文化8年(1811年)6月22日に養子胤統に家督を譲り隠居した。文化11年9月24日に54歳で病没。

遠藤胤統 えんどうたねつね
1793~1870(寛政5~明治3)、幼名直之進、従五位下、従四位下、但馬守、民部大輔、中務大輔
近江三上1万2千石

大垣藩主戸田氏教の三男で、先代胤富の養子となる。文化8年(1811年)6月の胤富隠居により家督を相続した。
文化9年(1812年)4月日光祭礼奉行を勤めたあと、大坂城加番となる。天保8年(1837年)に大坂において大塩平八郎の乱が起き、胤統は鎮圧に活躍。その後江戸城会計掛を勤め、西の丸造営にも功績があって、2千石の加増を受けた。
安政元年(1854年)内海台場築造用掛、その後は蝦夷地開拓用掛、外国事務掛となり、安政6年(1859年)にはロシア使節応接、和宮と将軍家茂の婚礼用掛を勤める。
文久元年(1861年)海陸軍備用掛を経て、文久3年(1863年)10月7日に老齢の為に世子胤城に家督を譲り隠居、明治3年9月25日に78歳で死去した。

遠藤胤城 えんどうたねき
1838~1909(天保9~明治42)、幼名廸吉、従五位下、正三位、美濃守、備前守、但馬守
近江三上1万2千石→和泉吉見1万2千石

先代胤統の三男で、文久3年(1863年)父胤統の隠居により家督を相続した。慶応2年(1866年)第二次長州征伐に従軍するが、将軍家茂の死去により征伐が中止となり帰国。その後江戸に入り同年12月に陸軍奉行並。
三上藩は最初は幕府側であたったが、その後彦根藩が倒幕の立場をとったことで、三上藩も朝廷に帰順した。明治2年(1869年)6月に三上藩知事となり、翌明治3年7月に和泉日根郡吉見に移り吉見藩知事となるが、翌明治4年廃藩置県により免職。
明治11年(1878年)から旧姓の東氏を名乗り、明治42年11月9日に72歳で死去した。

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