歴史の勉強

「寛政重修諸家譜」では土井家について、貞秀より利昌に至るまで世系を失うとしており、系図の最初に利昌が置かれる
貞秀はその祖を清和源氏土岐氏流といい、土岐五郎光定の二男定親から始まり、師親-貞秀と続き、その子孫が三河国碧海郡土居村に居住し、土居を姓として後に土井と改めたとする。
もちろんこの家系は信用できず、利昌より前については世系すら明らかでないほどの家であった。
利昌の子が江戸時代前期に幕閣で活躍する利勝である。利勝については、水野信元の子であるとする説(したがって家康の従兄弟となる)や家康御落胤説もあるが、幼少から家康に仕えて、のちに秀忠に付けられた。
秀忠のもっとも早くからの側近で、これが土井氏の発展のきっかけとなった。利勝は秀忠・家光のもとで幕閣の実力者となり、終生まで中枢にあった。
利勝の没後、その遺言により分知が行われ、宗家は長男利隆が継いだほか、利長系、利房系、利直系の4家に分かれた。
宗家は四代利久のときに無嗣断絶の危機に直面したが、藩祖利勝の功績により断絶を免れて明治まで続き、利長系は三河刈谷で、利房系は越前大野で明治を迎えた。

利長系土井氏のページ
利房系土井氏のページ
利直系土井氏のページ

土井利勝 どいとしかつ
1573~1644(天正元~寛永21)、幼名松千代、従五位下、従四位下、大炊助、大炊頭、侍従
下総小見川2万石→下総佐倉3万2千石(のち14万2千石)→下総古河16万石

土井利昌の長男として生まれたが、水野信元の子であるとする説(したがって家康の従兄弟となる)や家康御落胤説もある。
幼少より家康に仕え、天正7年(1579年)に秀忠が誕生すると同時に秀忠に付属された。このとき利勝は7歳、廩米2百俵を賜った。天正19年(1591年)には領地千石を賜る。
関ヶ原の際は秀忠付きであったために中仙道を進み、信濃上田城で真田昌幸に翻弄されて、決戦には間に合わなかったが、帰陣後に5百石を加増され徒頭となった。
慶長7年(1602年)12月に8千5百石加増された1万石となり諸侯に列し、下総小見川に封じられた。秀忠の側近第一号としてその信頼は絶大で、慶長13年(1608年)1万石加増、慶長15年(1610年)1万2千石加増のうえ下総佐倉に転封となった。
この間、慶長13年には浄土宗と日蓮宗との宗論に裁断を下して、政治的な手腕を見せる。佐倉では、家康から新城の築城を命じられ、慶長16年(1611年)から工事にかかり6年の歳月をかけて完成させた。
一方、慶長15年には老中となり幕閣中枢に入り、幕政に参画した。そのため佐倉城は老中の城として房総に威容を誇り、後世も老中の在城が多かった。
慶長17年(1612年)1万3千石加増、元和元年(1615年)の大坂夏の陣では豊臣方の大野治房に攻められて一時陣営は大混乱するが、その後反攻に転じて敵首98を挙げ、その功により2万石加増された。
さらに元和9年(1623年)に5千石加増されるなど、加増を重ねて最終的に佐倉藩は14万2千石となった。この年には酒井忠世、青山忠俊とともに家光の撫育を命じられている。
この3人の人選をしたのは家康であったといわれ、忠世には慈悲深く思いやりのある行動をとるように教育せよと、利勝には判断力を身に付けさせるようにせよと、そして忠俊には何事にも屈せずに勇気ある人物に育てよ命じたとされる。
翌元和2年に家康が没すると、久能山への埋葬、翌3年の日光への改葬に際しては、その実務一切を取り仕切った。
その後、利勝は幕政に専念するために家光の教育係を免じられ、幕府中枢にあって活躍し、寛永10年(1633年)4月には1万8千石を加増されて下総古河に転封となった。
寛永12年(1635年)には武家諸法度を大きく改訂して参勤交代を制度化し、翌寛永13年には通貨制度を一新して寛永通宝を鋳造して、江戸期を通じて機能した通貨制度を導入した。
利勝は政治的天才といわれ、家康・秀忠・家光の三代に渡り絶大な信任を得て、長く幕府中枢にあった。
思慮深く、言行には慎重であり、人の話をよく聞き、また人の使い方も巧みであったといわれる。独断専行型ではないので、将軍家をはじめ周囲の人物から尊敬を受け、これが武功はほとんどなかったにも関わらず利勝が無名から幕閣最上位の実力者になれた源泉である。
利勝は長く幕府中枢になったためにほとんど江戸にあり、佐倉や古河の藩政は家臣をもってあたらせたが城下町や街道の整備や新田開発、寺社保護など多くの事績を残している。
寛永14年(1637年)ごろから中風となり床に伏した。その際には家光自らの見舞いを受けた。翌寛永15年に家光の気遣いにより大老となって実務を離れ、事実上の名誉職となった。
その後病状は一時回復して、登城できるほどになったが、寛永21年(1644年)6月より再び病に伏せ、同年7月10日に72歳を以って死去した。

土井利隆 どいとしたか
1619~1685(元和5~貞享2)、幼名松丸、従五位下、遠江守
下総古河13万5千石

先代利勝の長男で寛永7年に従五位下、遠江守に叙任され、寛永12年(1635年)10月小姓組番頭となり太田資宗、三浦正次、阿部重次らとともに政務に預る。これが後に制度化されると若年寄となる。
寛永21年(1644年)父利勝死去により家督となる。このとき利勝の遺言によって、弟利長と利房に各1万石、利直に5千石を分知したので、利隆が相続したのは13万5千石であった。
利隆は父の七光りによって支えられていただけで、暗愚無能であり、不行跡を繰り返したといわれる。あまりの素行の悪さに家老大野仁兵衛の諫死を受け、一族の間でも利隆への不満がたかまり、慶安4年(1651年)ころより病気を理由に引きこもり、表には弟の利直を名代に立てた。
これらもあって万治元年(1658年)9月7日に、長男利重に家督を譲り隠居することを余儀なくされた。貞享2年2月28日に67歳で死去した。

土井利重 どいとししげ
1647~1673(正保4~延宝元)、幼名甚三郎、従五位下、大炊頭
下総古河10万石

正保4年に先代利隆の長男として生まれ、万治元年(1658年)9月に父利隆の隠居により12歳で家督を継いだ。このときに弟利益に1万石、叔父の利長と利房に各1万石を、同じく叔父の利直に5千石を分知し、利重の領地は10万石となった。
万治3年(1660年)4月には日光社参の家綱を古河城で饗応、寛文4年(1664年)には領内総検地を実施して藩政の基礎を固めた。延宝元年10月27日に27歳で死去した。

土井利久 どいとしひさ
1666~1675(寛文6~延宝3)、幼名竹右衛門
下総古河10万石

利久は二代藩主利隆の三男で、延宝元年(1673年)10月に子がなかった兄利重の急養子となった。しかし利久も嗣子のないまま延宝3年閏4月29日に10歳で死去してしまう。
このときに土井家は無嗣断絶の危機となったが、初代利勝の功により分家利益の家督が許され、利益は7万石に所領を削減された上で古河藩主となった。

土井利益 どいとします
1648~1713(慶安元~正徳3)、幼名小右衛門、従五位下、従四位下、周防守
下総古河7万石→志摩鳥羽7万石→肥前唐津7万石

二代藩主利隆の二男で、利隆が隠居した際に常陸下妻で1万石の分与を受けた。延宝3年(1675年)に宗家の利久が嗣子のないまま10歳で死去し、土井家は無嗣断絶の危機となったが、初代利勝の功により分家の利益に家督が許された。
所領は7万石に削減された為に、家老寺田与左衛門ら重臣をはじめ460余人が退藩し、家臣団を再編成した。
天和元年(1681年)2月25日に志摩鳥羽へ転封、天和3年(1683年)2月7日奏者番に就任した。鳥羽藩主時代の元禄元年(1688年)には大津波の被害を受けた。
元禄4年(1691年)2月9日に肥前唐津へ転封となった。学問に熱心であり、奥東江を儒臣として迎え、この東江の学風が唐津藩内の教育や学問の主流となった。
また正徳2年(1712年)には当家中諸法度を定めて家臣の心得を説いた。正徳3年閏5月25日に66歳で死去した。

土井利実 どいとしざね
1690~1736(元禄3~元文元)、幼名宮内、従五位下、出雲守、大炊頭
肥前唐津7万石

先代利益の長男として生まれ、正徳3年(1713年)父利益の死去により藩主となった。利益と同じく学問を好み稲葉迂斎を儒臣として迎えたが、奥東江の流れを組む吉武法命との間に学派間の対立を生んだ。
享保8年(1723年)に藩校盈科堂を建てる。享保17年(1732年)には蝗害による飢饉があり、幕府に拝借金を願ったほか、大きく人口の減少をみた。元文元年11月26日に47歳で江戸において死去した。

土井利延 どいとしのぶ
1723~1744(享保8~延享元)、幼名弁之助、従五位下、大炊頭
肥前唐津7万石

一族で旗本の土井利清の長男として生まれた。宗家先代の利実の子利武が早世したために、利実の養子となり、元文元年(1736年)に利実の死去により唐津藩主となったが、幼少の為に藩政は家老土井内蔵が代行した。延享元年7月17日に22歳の若さで没した。

土井利里 どいとしさと
1722~1777(享保7~安永6)、幼名幾之助、従五位下、従四位下、大炊頭、侍従
肥前唐津7万石→下総古河7万石

一族で旗本の土井利清の二男で、先代利延の実弟でもあった。延享元年(1744年)、唐津藩主となっていた兄の利延の急養子となり襲封した。
利里の初入部の際に謁見の順序を巡り紛争となる。農民代表の大庄屋を町人代表の後にした事に農民が反発したが、利里は旧例に戻して大庄屋を先にすることで場を収めた。その後大庄屋を処罰するなどして農民統制を強化し、専売制の導入を行った。
延享3年(1746年)松浦川大洪水、宝暦11年(1761年)旱害により藩内に被害を受ける。この間の宝暦9年(1759年)に利里は奏者番に就任、宝暦12年(1762年)に土井氏旧領の古河に転封となった。
古河では唐津時代に比べて実収入は半減したとされ、藩財政が窮乏したため経費節減、家臣の俸禄削減などの対策を行い、農村には社倉法など救済策を実施した。
宝暦13年(1763年)2月18日寺社奉行兼任、明和6年(1769年)8月18日京都所司代となり安永6年8月14日に京都にて病没した。

土井利見 どいとしちか
1758~1777(宝暦8~安永6)、幼名才百、従五位下、美濃守
下総古河7万石

三河西尾藩主松平(大給)乗祐の十男で先代利里の養子となった。先代利里も子供に恵まれず、川越藩主松平(越前)朝矩の子利建を養子としたが廃嫡し、利見を養子とした。
安永6年(1777年)8月14日に養父利里が死去し、10月4日家督を継いだが、同月27日に20歳で死去している。

土井利厚 どいとしあつ
1759~1822(宝暦9~文政5)、幼名亀丸、従五位下、従四位下、大炊頭、侍従
下総古河7万石(のち8万石)

摂津尼崎藩主松平(桜井)忠名の四男で、安永6年(1777年)10月先代古河藩主利見の養子となり、同年12月に襲封した。
安永8年(1779年)8月12日に奏者番、天明6年(1786年)3月24日に寺社奉行兼帯となるが、天明8年(1788年)6月26日に過失により寺社奉行免職となった。
その後、寛政8年(1796年)12月24日に再び寺社奉行兼帯となり、享和元年(1801年)京都所司代、翌享和2年老中となった。
利厚は学問を好み藩士に学問を奨励したほか、藩政では年貢軽減策を推進した。しかし寛政3年(1791年)8月には洪水被害による年貢減免と役人の不正糾弾を掲げた一揆が起きた。
この一揆は古河藩最大のものとなり、翌年に関係者の処罰が行われたが、これを機に入百姓策や子育て扶助などの農村振興策がとられた。
利厚はまた能書家であり、和歌にも優れており、土井家中興の祖と呼ばれる。老中在職は文政5年(1822年)までの21年の長きに及び、文政4年(1821年)には1万石の加増を受けた。文永5年1月24日に64歳で逝去。

土井利位 どいとしつら
1789~1848(寛政元~嘉永元)、幼名六郎、従五位下、従四位下、大炊頭、侍従
下総古河8万石

三河刈谷藩主土井利徳の四男で、文化10年(1813年)3月に先代古河藩主利厚の養子となり、文政5年(1822年)に利厚死去により襲封した。
文政6年(1823年)5月29日に奏者番、文政8年(1825年)5月24日に寺社奉行兼帯となるが、文政11年(1828年)12月16日に病により寺社奉行を辞した。
その後、文政13年(1830年)11月8日に再び寺社奉行兼帯となり、天保5年(1834年)4月11日に大坂城代となった。
大坂城代在任中の天保8年(1837年)2月に大塩平八郎の乱が起きるが、平八郎父子を捕縛して乱を鎮圧、その功績により同年5月に京都所司代となった。
天保9年(1838年)4月11日に西ノ丸老中、同年12月6日には老中となった。天保12年(1841年)5月に水野忠邦の天保の改革がはじまると、忠位は老中として忠邦に協力したが、天保14年(1843年)に忠邦が改革の一環として江戸と畿内周辺の上知令を打ち出すとこれに反対して反水野派の中心人物となった。
天保14年に水野忠邦が失脚すると老中首座となり、忠邦時代からの倹約令の継続や武士道の引き締めを実施した。
天保14年4月には将軍家慶の日光社参があり、その途次に家慶は古河に宿泊した。これが最後の将軍日光社参となった。
天保15年(1844年)になると江戸城本丸が焼失し、その復興費用を捻出できずに家慶の不興を買い、さらに外国問題でも紛糾した。そのために老中に水野忠邦が復帰し、入れ替わるように忠位は10月12日に老中を辞任した。
藩財政窮乏により領内の有力農民に名字帯刀と引き替えに御用金を課し、家中には厳しい倹約令を布いた。また農民救済にも力をいれた。
学問好きでもあり、蘭学を研究したほか、雪の結晶については「雪華図説」「続雪華図説」を著して高い評価を受けた。
嘉永元年4月25日に養子利亨に家督を譲り隠居したが、同年7月2日に60歳で死去した。

土井利亨 どいとしなり
1812~1848(文化9~嘉永元)、従五位下、大炊頭
下総古河8万石

越前敦賀藩主酒井忠蓋の二男として生まれ、弘化年間に先代忠位の養子となった。嘉永元年(1848年)4月に忠位の隠居により家督を譲られ藩主となったが、同年8月24日に37歳で死去してしまった。

土井利則 どいとしのり
1831~1891(天保2~明治24)、幼名鋤抵若、従五位下、大炊頭
下総古河8万石

伊勢久居藩主藤堂高秭の四男で、弘化4年(1847年)3月に先代利亨の養子となった。嘉永元年(1848年)利亨の死去により家督を継いだ。
嘉永7年(1854年)には将軍家定の名代として日光に参拝し、文久元年(1861年)の和宮降嫁に際には浦和宿から板橋宿まで護衛役を勤めた。
安政4年(1857年)には片町に教武所を設立して武道を奨励、西洋砲術の演習も行った。その後、病気がちとなり、公務に精勤できず、慶応3年(1867年)4月5日に長男利与に家督を譲り隠居し、明治24年8月26日に61歳で卒した。

土井利与 どいとしとも
1851~1929(嘉永4~昭和4)、幼名基若、従五位下、大炊頭
下総古河8万石

先代利則の長男として嘉永4年に江戸で生まれ、慶応3年(1867年)に利則の隠居により家督を相続した。
幕末の古河藩は、家老小杉監物の決断により、幼少の利与と監物が上洛して勤皇の意志を表し、会津征討軍の兵糧方を担当した。
明治2年(1869年)版籍奉還により古河藩知事、明治4年(1871年)廃藩置県により免職となった。伐等郡は伊勢久居藩主藤堂高秭の四男で、弘化4年(1847年)3月に先代利亨の養子となった。

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