歴史の勉強

出自については藤原北家花山院流といい、後醍醐天皇の忠臣であった花山院師賢の後裔師重が上野国吾妻郡青山郷、今の群馬県吾妻郡中之条町青山に住し青山を称したという。
その後戦国期に青山忠門が三河国額田郡百々(どうどう)村に移り、家康の父松平広忠に仕えた。忠門の子の忠成は家康に近侍していたが、その後秀忠の傳役となった。
家康の関東移封に伴い相模国高座郡内に5千石の領地を与えられ、原宿村から上渋谷村にかけて広大な屋敷地を賜り、これが現在の東京青山の名の起こりである。
文禄元年(1592年)に関東総奉行、関ヶ原役後に加増されて1万8千石となり大名に列した。その後も数回の加増があって2万8千石を領したが慶長18年(1613年)に没した。
一方、忠成の嫡子忠俊は幼少から秀忠に近侍して、慶長16年(1611年)に1万石の大名となり、忠成の死去後その遺領を合わせて3万5千石、さらに7千石加増され4万5千石となって武蔵岩槻に入部した。
忠俊は三代将軍家光の傳役でもあたったが、家光の勘気に触れて改易蟄居となった。しかしすぐに許されて、その孫は信濃小諸、遠江浜松、丹波亀山などに転封を繰り返し、度々幕府の要職にもついた。寛延元年(1748年)に丹波篠山6万石となって、明治維新を迎えた。
また、忠成の三男幸成は摂津国尼崎5万石を賜り、その後信濃飯山、丹後宮津と移り、幸道の時に美濃国郡上郡八幡4万8千石となり、郡上藩として明治維新まで続いた。

幸成系青山氏のページ
大名騒動録・青山忠俊のページ

青山忠俊 あおやまただとし
1578〜1643(天正6〜寛永20)、幼名伊勢千代・藤蔵・藤五郎、従五位下、伯耆守
武蔵岩槻4万5千石→上総大多喜2万石(改易)

天正6年に遠江浜松で生まれ、幼少時より秀忠に近侍し、慶長5年(1600年)従五位下伯耆守に叙任。慶長8年(1603年)常陸江戸崎に5千石を賜り、慶長12年から家光の傳役となる。
慶長15年(1610年)書院番頭、翌16年に下野鹿沼に5千石加増され大名に列す。慶長18年(1613年)父忠成が死去し、その遺領2万8千石を継いだ。その際に弟幸成と通直に1千5百石づつを分知し、差し引き3万5千石となる。
大坂の陣では冬の陣、夏の陣ともに出陣して功あり、その後酒井忠世、土井利勝とともに家光の撫育にあたる。家光は厳正な酒井忠世、明敏な土井利勝、剛勇な青山忠俊から教育を受けて将軍としての資質を身につけたといわれる。
元和2年(1616年)に老中となり、元和6年(1620年)1万石加増のうえ武蔵岩槻城を賜り岩槻城主となる。この年江戸城本丸天守作事総奉行、元和9年(1623年)8月嫡子宗俊とともに家光の将軍宣下のために上洛に供奉。しかしその2ヵ月後家光の勘気を蒙り老中を罷免され、上総大多喜2万石に減知転封される。諸事厳格な忠俊は公衆の面前で家光に諫言し、家光の勘気をこうむったとされるが、その裏には秀忠との確執があったとされ、家光が秀忠の側近であった忠俊を嫌ったともいわれる。
やがて下総細戸に蟄居となり、大多喜は廃藩となって領地は収公された。寛永元年(1624年)相模高座郡に、翌2年には遠江国小林村に移されて1千石を与えられた。
さらに弟幸成の領地である相模国今泉村に移るように命ぜられて、寛永20年4月15日にその地で没した。66歳であった。なお、子の宗俊は忠俊ととも相模今泉で蟄居したが、後に許されて信濃小諸で大名に復した。

青山宗俊 あおやまむねとし
1604〜1679(慶長9〜延宝7)、幼名伊勢千代・藤五郎、従五位下、従四位下、因幡守
→信濃小諸3万石→遠江浜松5万石

青山忠俊の嫡男として生まれたが、父忠俊が家光の勘気に触れて相模国高座郡内に蟄居となると、宗俊もこれに従った。その後父とともに命ぜられるまま遠江小林村、相模国今泉村に移る。
宗俊は寛永9年(1632年)に赦免されて、寛永15年(1638年)書院番頭となり武蔵・相模国内で3千石を賜る。慶安元年(1648年)に信濃2万7千石を加増されたほか、1万5千石を預けられて小諸城主となり、ここに青山家は大名に復した。
小諸城主のころは新田開発を熱心に行い、寛文2年(1662年)大坂城代となって2万石加増、封地を摂津国内などに移される。
延宝6年(1678年)6月に老齢の為に大阪城代を辞職し、8月に遠江浜松に移り、翌延宝7年2月15日に76歳で死去した。

青山忠雄 あおやまただお
1651〜1685(慶安4〜貞享2)、幼名伊勢千代、従五位下、和泉守
遠江浜松5万石

慶安4年青山宗俊の二男として小諸で生まれる。延宝7年(1679年)父宗俊の死去により家督を継いだが、在任6年の貞享2年8月8日に35歳で死去した。

青山忠重 あおやまただしげ
1654〜1722(承応3〜享保7)、従五位下、下野守、因幡守
遠江浜松5万石→丹波亀山5万石

先々代宗俊三男で、天和3年(1683年)に兄忠雄の養子となり、貞享2年(1685年)忠雄死去により襲封。元禄15年に浜松から丹波亀山に転封となる。
享保7年6月18日に隠居し俊春に家督を譲るが、4ヵ月後の10月28日、69歳で死去した。

青山俊春 あおやまとしはる
1700〜1730(元禄13〜享保15)、従五位下、下野守、因幡守
丹波亀山5万石

青山忠重の子として元禄13年に生まれ、享保7年(1722年)に忠重隠居により家督を継ぐ。在封8年目の享保15年7月18日31歳で死去した。

青山忠朝 あおやまただとも
1708〜1760(宝永5〜宝暦10)、幼名七三郎、従五位下、伯耆守、因幡守、従四位下
丹波亀山5万石→丹波篠山5万石

一族の摂津尼崎藩主青山幸督の二男として宝永5年に生まれ、享保15年(1730年)7月青山俊春の末期養子となり、俊春の死去により家督を継いだ。
延享元年(1744年)奏者番、寛延元年(1748年)寺社奉行兼任となり丹波篠山に転封となる。宝暦8年(1758年)11月大坂城代となったが在勤のまま2年後の宝暦10年7月15日に53歳で死去した。

青山忠高 あおやまただたか
1734〜1816(享保19〜文化13)、幼名秀五郎、従五位下、下野守
丹波篠山5万石

一族の丹後宮津藩主青山幸秀の七男として享保19年に江戸で生まれる。宝暦4年に青山忠朝の養子となり、宝暦10年(1760年)忠朝死去のより襲封。
明和3年(1766年)に藩校振徳堂を創設し、藩内外を問わず学問を志す者に門戸を開放した。農政においては用水の開鑿により増産に努めたが、不作続きで明和年間には一揆が頻発した。
天明元年(1781年)6月24日に病のために隠居、文化13年8月14日83歳の高齢で死去した。

青山忠講 あおやまただつぐ
1765〜1785(明和2〜天明5)、幼名春橘、従五位下、伯耆守
丹波篠山5万石

先代忠高の二男として江戸で生まれ、天明元年(1781年)に父忠高の隠居により家督を継ぐが、在封わずか4年の天明5年7月18日に21歳の若さで死去した。

青山忠裕 あおやまただやす
1768〜1836(明和5〜天保7)、幼名久之助、従五位下、下野守、従四位下、侍従
丹波篠山5万石→丹波篠山6万石(加増)

先々代青山忠高の三男として江戸で生まれる。天明5年(1785年)兄忠講死去により18歳で襲封する。寛政4年(1792年)奏者番、翌5年に寺社奉行兼任となる。さらに寛政8年(1796年)若年寄、寛政12年(1800年)大坂城代、享和2年(1802年)京都所司代、享和4年(1804年)に老中就任。
老中在職中に相馬大作事件などを裁き、将軍家斉の太政大臣への昇進の功績を認められ1万石の加増を受ける。
藩政では特に教育に力を入れたほか、高齢者への手当て支給や死刑廃止など福祉や法政にも力を注ぐ。
天保6年(1835年)に病により老中を辞任したが老中在職は32年に及ぶ。同年閏7月隠居、翌天保7年3月20日69歳で死去した。

青山忠良 あおやまただよし
1807〜1864(文化4〜元治元)、幼名登、従五位下、因幡守、従四位下、下野守、侍従
丹波篠山6万石

先代青山忠裕の五男として江戸で生まれる。天保6年(1835年)に父忠裕の隠居により家督を継ぐ。
天保7年(1836年)奏者番、翌天保8年寺社奉行兼任。天保9年(1838年)に起きた大塩平八郎の乱に藩士を派遣。天保11年(1840年)大坂城代、弘化元年(1844年)老中に就任。老中在職は5年間であったが幕末の為に用務多忙。嘉永元年(1848年)病により老中を辞す。嘉永7年(1854年)に京都守護を命じられ七条口を警備した。
文久2年(1862年)2月29日病により隠居、2年後の元治元年11月15日江戸において58歳で死去。

青山忠敏 あおやまただゆき
1834〜1873(天保5〜明治6)、幼名鐘之助、従五位下、因幡守、従四位下、左京大夫
丹波篠山6万石

先代青山忠良の二男で天保5年に江戸で生まれる。文久2年(1862年)父忠良の隠居により29歳で家督を相続した。
篠山藩はこの時期京都警護につき、文久3年(1863年)七卿落ちの際には二条城守護、元治元年(1864年)の蛤御門の変には蛤御門や堺町御門を守護した。
元治2年(1865年)奏者番となり、忠敏は江戸に詰めたが、篠山では山陰道鎮撫使西園寺公望を迎え、朝廷に帰順して城は無血開城した。
この報を聞き藩主忠敏も帰国参内して朝廷への帰順を表明した。明治2年(1869年)版籍奉還により篠山藩知事となり明治維新を迎えた。明治6年3月21日40歳で死去。


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