歴史の勉強

寛政重修諸家譜によれば、秋元氏の祖は宇都宮頼綱の子泰業が上総国周准郡秋元荘(千葉県君津市)に住したことで秋元氏を称し、その孫師時のときに正式に名字としたとされている。したがって藤原北家宇都宮氏流ということになる。
戦国期の当主景朝は武蔵国深谷城主上杉憲盛の重臣であったが、やがて憲盛は上杉謙信に滅ぼされ、景朝の子長朝は後北条氏に属した。
秀吉の小田原攻めの際に長朝は後北条氏を裏切って浅野長政のもとに転じ、その後井伊直正の斡旋で徳川家康に仕え上野国碓氷郡に5百石を与えられた。
慶長6年(1601年)には上野総社で1万石を有して大名に列し、その孫は甲斐谷村、武蔵川越、出羽山形と転封を繰り返して上野館林6万石で明治維新を迎える。
歴代では喬知と涼朝が老中に列せられているが、涼朝は田沼意次と対立したといわれ、以後は不遇を託った。

秋元長朝 あきもとながとも
1546~1628(天文15~寛永5)、幼名孫四郎・孫三郎、越中守
上野総社1万石

天文15年(1546年)、武蔵国深谷で秋元景朝の嫡子として生まれる。父景朝が仕えた深谷城主上杉憲盛に仕える。
上杉憲盛は天正18年(1590年)秀吉の小田原攻めの際に小田原城に籠城し、深谷城は長朝が守備したが、浅野長政の説得でその陣に降る。その際に小田原に人質に出していた嫡子泰朝を取り戻した。
小田原の北条氏が滅び、家康が関東に入部すると、文禄元年(1592年)井伊直政の仲介で家康に仕え、上野国碓氷郡中野谷に5百石を与えられる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原役の際には家康の命により下総栗橋を守って上杉景勝の南下に備え、戦後は会津に景勝の投降を促す正使として向い、景勝を家康のもとに降した。その功により6千石を加増され上野総社で1万石の大名となった。
慶長7年(1602年)より領内に用水の開削を始めて、慶長9年に完成させ、その結果2万7千余石の新田が開発された。
また城地を植野勝山に定めて総社城を築城し、城下町の整備を行なった。元和8年(1622年)に嫡子泰朝に家督を譲り隠居し、寛永5年8月29日83歳で総社城にて病没した。

秋元泰朝 あきもとやすとも
1580~1642(天正8~寛永19)、幼名牛坊・孫七郎、従五位下、但馬守
上野総社1万5千石→甲斐谷村1万8千石

秋元長朝の嫡子として深谷で生まれ、当時長朝が属していた小田原の北条氏のもとに送られ人質生活を送る。
天正18年(1590年)秀吉の小田原攻めの際に小田原城から助け出され、長朝のもとに帰り、文禄元年(1592年)井伊直政の仲介で長朝が家康に仕えると、泰朝は家康の近習となった。
関ヶ原役に家康のもとで従軍し、慶長7年(1602年)大番役となり5百石を与えられ、翌慶長8年に従五位下但馬守に叙任される。
大坂冬の陣の際に総堀の埋め立てに功があり上野・武蔵両国内で5千石を与えられる。元和8年(1622年)に父長朝の隠居によって家督を継ぎ、合わせて1万5千石となる。
これより前の元和3年(1617年)家康の遺骸の日光山への改葬の際にはその奉行を勤め、寛永2年(1625年)には日光山奥の院宝塔造営の奉行を勤める。
寛永10年に日光造営奉行の功で3千石を加増され、甲斐谷村に転封となる。谷村では用水の開鑿を行い、城下の整備も兼ねて谷村大堰を開き、養蚕を奨励した。
寛永19年10月23日に63歳で病没した。

秋元富朝 あきもととみとも
1610~1657(慶長15~明暦3)、幼名長丸、従五位下、越中守
甲斐谷村1万8千石

先代泰朝の嫡子として上野国総社に生まれる。慶長19年(1642年)に泰朝の死去により家督相続。寛永年間に領内諏訪森に植林を行い、富士山の雪解水により流失する田畑を守った。諏訪森は赤松の美林として現在は国有林となっていて、富朝の名とともに伝わっている。
治世15年にして明暦3年6月17日に48歳で死去。

秋元喬知 あきもとたかとも
1649~1714(慶安2~正徳4)、従五位下、但馬守、従四位下、侍従
甲斐谷村1万8千石→武蔵川越6万石

先代富朝の女が嫁いだ戸田山城守忠昌の長男として生まれた。富朝に男子がなく、その養子となり、明暦3年(1657年)に富朝の死去により家督を継いだ。初名を喬朝のちに喬知に改める。
寛文5年(1665年)7月奏者番、天和元年(1681年)11月兼寺社奉行、翌天和2年10月若年寄、元禄4年(1691年)下野国内に5千石加増、元禄7年(1694年)河内国で7千石加増、元禄12年(1699年)10月に老中となる。
翌元禄13年に1万石加増、同年12月侍従、宝永元年(1704年)にさらに1万石を加増されて都合5万石となり、武蔵川越に転封となった。
谷村時代は領内整備に意を注ぎ、先々代泰朝の奨励した養蚕をもとに郡内織を盛んにしたが、領内では度々一揆が起きた。
川越時代は大地震や富士山噴火などで動揺する領内を押え、殖産振興を行なった。絹織物の川越斜子や袴地の川越平の生産なども喬知の代に育成された。
幕閣としては若年寄の時に小石川御殿、護持院、護国寺、寛永寺中堂などの造営を奉行し、老中の時には改易となった松平光長の居城越後高田城受取、江戸三の丸造営総奉行、禁裏造営奉行、桂昌院廟造営奉行などを勤める。
正徳元年(1711年)12月に武蔵河内両国内に1万石加増され6万石となったが、正徳4年8月14日66歳で死去した。

秋元喬房 あきもとたかふさ
1683~1738(天和3~元文3)、従五位下、但馬守
武蔵川越6万石

先代喬知の嫡子で初名を尚朝という。正徳4年(1714年)に父喬知の死去により家督を相続。
享保8年(1723年)9月奏者番となる。元文3年9月5日56歳で死去した。

秋元喬求 あきもとたかもと
1716~1744(享保元~延享元)、従五位下、越中守
武蔵川越6万石

先代喬房の女が嫁した戸田越前守忠余の二男として生まれ、男子がなかった喬房の養子となり、元文3年(1738年)喬房死去により襲封した。
病弱であったらしく、襲封4年後の寛保2年(1742年)に致仕し、延享元年2月26日29歳で死去した。

秋元涼朝 あきもとすけとも
1717~1775(享保2~安永4)、幼名万四郎、従五位下、摂津守、従四位下、但馬守
武蔵川越6万石→出羽山形6万石

一族の秋元隼人正貞朝の三男で、先代喬求に子がなかったためにその養子となり、延享元年(1744年)に封を継いだ。
同年5月に奏者番、延享3年(1746年)寺社奉行兼帯、翌4年6月西の丸若年寄、9月西の丸老中、12月従四位下、翌寛延元年(1748年)5月侍従と順調に栄進し、宝暦10年(1760年)4月に老中に列した。
明和元年(1764年)に病気により老中職を辞するが、翌2年に再び西の丸となった。しかし同4年に西の丸老中を辞職し、閏9月に山形へ転封を命じられる。
当時の山形は頻繁な藩主交代の後、天領時代になっていて城地も荒れ果てた、いわゆる左遷地であった。そのために涼朝は転封を嫌い、明和5年(1768年)に永朝に家督を譲り隠居した。
そのために涼朝は一度も山形には入っていない。この涼朝の西の丸老中辞職と山形転封の裏には田沼意次との対立があったとされる。
川越時代の治世は、財政難から相次いで倹約令を発し、領内に騒動も発生したという。安永4年5月25日、59歳で死去した。

秋元永朝 あきもとながとも
1738~1810(元文3~文化7)、幼名岩五郎、従四位下、但馬守
出羽山形6万石

上田能登守義当の四男で、男子のなかった先代涼朝の養子となり、明和5年(1768年)涼朝の隠居により家督を継いだ。
先代涼朝は山形転封を嫌い山形には一度も入部しなかった。山形城は荒廃しており、その曲輪も広大なだけで荒れ果てていたので、その整理を命じられた。
安永3年(1774年)12月に奏者番となるが職務上の過失で出仕を停められた。天明3年(1783年)に領内の凶作により飢饉となり、翌4年には城下に打毀しが起きた。
文化7年7月9日73歳で死去した。

秋元久朝 あきもとひさとも
1792~1847(寛政4~弘化4)、幼名臣三郎、従五位下、但馬守、若狭守
出羽山形6万石

先代永朝の嫡子で、文化7年(1810年)永朝の死去により家督を継いだ。
秋元氏の領地は出羽、武蔵、河内3国に三分されていたが、天保2年(1831年)に武蔵国内において領地替えがあった。
天保10年(1839年)4月13日に家督を養子志朝に譲り隠居し、弘化4年10月19日56歳で死去。

秋元志朝 あきもとゆきとも
1818~1874(文政3~明治9)、幼名譔佐、従四位下、但馬守、刑部大輔
出羽山形6万石→上野館林6万石

周防国徳山藩主毛利日向守広鎮の二男で、天保2年(1831年)先代久朝の養子となる。天保10年(1839年)久朝の隠居により家督を継いだ。
弘化2年(1845年)に上野館林に転封となるが、出羽村山郡内に4万6千石余りの封地を残し、そのために漆山に代官所を置いて管理した。
安政2年(1855年)の大地震を機に藩政改革を実施し、藩学求道館(のち造士書院と改名)を設置し文武を奨励するなどした。
幕末の長州征伐では毛利家出身のために座視できずに、自ら上京して朝廷の内旨を受けて、長州藩と幕府の斡旋に奔走した。
しかし一度は上手く行きかけた斡旋も、結局は朝廷が幕府に対毛利方針を一任したために実らず、逆に幕府から通牒を疑われて元治元年(1864年)10月27日に隠居させられた。その後明治9年7月26日57歳で没した。

秋元礼朝 あきもとひろとも
1848~1883(嘉永元~明治16)、幼名五十橘、従五位下、但馬守、従四位下
上野館林6万石

遠江国掛川藩主太田資始の五男として生まれ、安政6年(1859年)先代志朝の養子となる。志朝が長州征伐の際に出身の毛利家との内通を疑われて隠居した後を受けて、元治元年(1864年)に襲封した。
慶応2年(1866年)奏者番となるが、戊辰戦争の際は当初から朝廷方にたち、慶応4年(1868年)には奏者番を辞して、関東諸藩ではもっとも早く政府軍に加わった。
明治2年(1869年)に賞典録1万石を授与され、館林藩知事を経て明治16年6月13日に35歳で没す。

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