歴史の勉強
(依田)

依田氏は信濃源氏の祖といわれる、源満快の曾孫為公の子孫といわれ、信濃国小県郡依田荘に住して姓とした。
依田小太郎が木曾義仲に属し、鎌倉時代には御家人であった。その後は佐久郡蘆田に本拠を移し蘆田氏と称した。下って武田氏に属したが、信蕃のとき武田氏が滅亡すると家康に服属した。
家康は信蕃の武勇と信義を認め、その子の康国が天正11年(1583年)に家督を継ぐと松平姓を与えた。 康国は天正18年(1590年)に武田氏旧臣に殺害され、跡を信蕃二男の康真が継いだ。
康真は家康の関東移封のときに上野藤岡3万石を与えられるが、慶長5年(1600年)に大坂において囲碁のうえでの争いから、旗本小栗三介を殺害して高野山に出奔し除封された。

松平康国 まつだいらやすくに
1570~1590(元亀元~天正18)、幼名竹福丸

依田(蘆田)信蕃の嫡子として信濃春日城に生まれ、天正10年(1582年)に武田家の人質となった。武田家滅亡後は織田家の人質となり、織田家の武将滝川一益に預けられた。
滝川一益が上野国厩橋に移ると海津城主森長可に預けられた。天正10年6月に信長が本能寺で横死すると、長可は海津城を放棄し西国に逃げ、その際に康国は木曾義昌に預けられた。
義昌は信蕃の説得により家康に属し、康国は父信蕃とともに遠江国二俣城に移った。翌天正11年2月22日に、父信蕃が岩尾城攻めの際に戦死し、家康の命により父の遺領を継ぎ、松平姓と康の一字を賜った。
康国は家康の甲信平定に活躍し、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは秀吉方の上田城主真田信幸に備え小諸城を守備した。
その後は佐久地方の統治に力いれたが、天正17年(1589年)に佐久地方の旧領主が反乱し、これを鎮圧した。
天正18年(1590年)の小田原征伐では武田旧臣の反乱を鎮圧し、大道寺政繁の拠る上野国松井田城を攻撃したほか、上野国内の西牧城、石倉城を攻略したが、同年4月26日に陣営に来会した石倉城主金井秀景により殺害され21歳の生涯を閉じた。

松平康真 まつだいらやすざね
1574~1623(天正2~元和9)、幼名福千代、従五位下、右衛門大夫

依田(蘆田)信蕃の二男として信濃春日城に生まれ、初名を康勝という。天正10年(1582年)に兄康国とともに武田氏の人質となり、武田家滅亡後は兄にとともに滝川一益、森長可、木曾義昌に預けられる。
木曾義昌が家康に属してからは兄とともに遠江二俣城に移り、天正14年(1586年)元服の際には家康から松平姓と康の字を賜った。
父の死後は兄に属して各地で戦い、天正18年(1590年)の小田原征伐の際に上野国石倉城主金井秀景に兄が殺害されると、家督を継いだ。このときに本姓を蘆田から依田に復している。
小田原征伐後の家康の関東移封により上野国緑野郡、武蔵国榛沢郡内で3万石を与えられ上野藤岡を居城とした。
翌天正19年の九戸政実の乱にも出陣に、文禄3年(1594年)には伏見城築城工事に従事した。慶長5年(1600年)1月23日に大坂の旅宿で小栗三介と囲碁のうえから口論となり、三介を殺害して高野山に出奔し除封された。
その後赦されて5千石の捨扶持を与えられて、結城秀康に仕え、その子孫は蘆田氏を称して福井藩松平家の家臣として存続した。

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