歴史の勉強
(滝脇)

滝脇(たきわき)松平家は、松平親忠の九男乗清が三河国加茂郡滝脇郷を領したことにはじまる。乗清の跡を乗遠-乗高-乗次と継承し、以降も旗本として存続したとされる。
「寛政重修諸家譜」では、乗清には乗遠と親正の二子があって、親正は麻生城を与えられて麻生松平家を称し、その系統は清房-正忠と続き、正忠の二男正勝が滝脇松平家の正系を継いだとする。
正勝は大坂夏の陣で戦死し、嗣子がなかったために秀忠の命で形原松平家の家信の二男重信が養子になってその跡を継ぎ、さらにその子の信孝が元禄2年(1689年)に1万石を領して諸侯に列し、駿河国小島藩を立藩した。
幕末に徳川宗家が駿府に移ると、上総国内に1万石を代替されて桜井藩となり、廃藩置県を迎える。

松平乗高 まつだいらのりたか
?~1592(?~文禄元)

滝脇松平家は祖の乗清、その子の乗遠、乗遠の長男正乗は、いずれも弘治2年(1556年)1月の滝脇合戦で戦死している。
滝脇合戦は同族の大給松平家の親乗が滝脇領を侵略したために起きたものであったが、これにより滝脇松平家の家督は乗遠二男の乗高が継いだ。
乗高は家康に仕え、永禄6年(1563年)三河一向一揆の際に活躍し、家康に認められた。天正3年(1575年)に大給城を攻めて親乗を敗走させて父祖の仇を討った。
家康の遠江侵攻の際にも参陣、その後も功を重ね、家康の関東入部に従って江戸に入り従五位出雲守となった。文禄元年1月25日に死去した。

松平乗次 まつだいらのりつぐ
?~?(?~?)、幼名金次郎

先代乗高の嫡子として滝脇で生まれ、通称右馬助。慶長3年(1598年)家康上洛の際に供奉し、伏見城番をつとめる。関ヶ原役にも従軍し、戦後三河滝脇と三河額田郡内で6百石を得た。元和9年(1623年)に従五位監物となり、その孫は旗本となったという。
一方「寛政重修諸家譜」では、滝脇の正系は乗遠の弟親正の系統が継いだという。すなわち親正は麻生城を与えられて麻生松平家を称し、その系統は清房-正忠と続き、正忠の二男正勝が滝脇松平家を継いだ。
しかし正勝は大坂夏の陣で戦死し、嗣子がなかったために二代将軍秀忠の命で、形原松平家の家信の二男重信が養子に入って、以後この系統が滝脇正系として存続したとする。

松平重信 まつだいらしげのぶ
1600~1673(慶長5~延宝元)、幼名助十郎、従五位下、丹後守

松平(形原)家信の二男として生まれ、滝脇家の正勝が大坂夏の陣で戦死したため、将軍秀忠の命により婿養子となって滝脇家の家督を継いだ。
上総国山辺郡、常陸国江戸崎において千2百石を与えられ、正保2年(1645年)に従五位丹後守に叙任された。小姓組番頭、書院番頭、大番頭を経て明暦2年(1656年)駿府城代となり駿河国有渡、安倍、庵原郡内で5千石を与えられた。延宝元年4月1日に74歳で没した。

松平信孝 まつだいらのぶなり
1655~1690(明暦元~元禄3)、幼名助十郎、従五位下、但馬守、安房守
駿河小島1万石

丹波篠山藩主松平(形原)典信の庶長子として生まれた。先代重信の男子2人が早世したために、寛文11年(1671年)に重信の養嗣子となり、延宝元年(1673年)養父重信死去により19歳で家督を相続した。
天和元年(1681年)小姓組番頭、翌天和2年千石を加増され6千石となった。元禄2年(1689年)5月に若年寄となり、武蔵国埼玉郡、上野国邑楽、勢多、山田三郡内で4千石を加増されて諸侯に列した。
陣屋を駿河国小島に構えて小島藩を立藩したのは次代信治であるが、小島藩では信孝を初代としている。世評は高かったが病弱で、在封1年後の元禄3年10月18日に36歳の若さで病没した。

松平信治 まつだいらのぶはる
1673~1724(延宝元~享保9)、幼名助十郎、従五位下、下野守
駿河小島1万石

旗本戸田和泉守重恒の二男として生まれた。生母は先代信孝の妹である。先代信孝の男子が早世していたために、その養嗣子となり元禄3年(1690年)に信孝死去により家督を継いだ。
元禄11年(1698年)に武蔵、上野両国内の領地を駿河に移され、宝永元年(1704年)に駿河小島に陣屋を構えた。享保3年(1718年)に大番頭となる。享保9年3月29日に52歳で死去した。

松平信嵩 まつだいらのぶたか
1710~1731(宝永7~享保16)、幼名箕之助、己之助、従五位下、安房守
駿河小島1万石

丹波篠山藩主松平(形原)信庸の六男として先代信治の男子が早世したために、享保6年(1721年)にその養嗣子となり、享保9年(1724年)信治死去により家督を継いだ。
すでに藩財政は悪化しており、譜代足軽制、足軽仲間制を敷いて財政負担軽減を図った。在封7年後の享保16年7月27日に22歳の若さで死去した。

松平昌信 まつだいらしげのぶ
1728~1771(享保13~明和8)、幼名箕之助、源之助、従五位下、内匠頭、安房守
駿河小島1万石

先代信嵩の長男として小島に生まれ、享保16年(1731年)に信嵩の死去によりわずか4歳で家督を継いだ。「まさのぶ」ともいう。
宝暦9年(1759年)に人材の登用と新田開発、支出の削減などを柱とした藩政改革を実施したが、年貢増微と御用金の負担で領民は苦しんだという。
凶作であった宝暦14年(1764年)には大坂加番中に農民一揆が起き、翌明和2年(1765年)に改革責任者を更迭して農民の要求を入れた。明和8年6月27日に44歳で死去した。

松平信義 まつだいらのぶのり
1742~1801(寛保2~享和元)、幼名左近、助三郎、従五位下、丹波守、豊後守、丹後守
駿河小島1万石

越後村松藩主堀直尭の二男として生まれ、先代昌信の婿養子となり、明和8年(1771年)に昌信死去により襲封した。
安永5年(1776年)大坂加番、安永7年(1778年)日光御役などをつとめ、病により寛政12年(1800年)7月20日に長男信圭に家督を譲り隠居し、享和元年9月17日に60歳で死去。

松平信圭 まつだいらのぶかど
1776~1820(安永5~文政3)、幼名寛之進、従五位下、安房守、采女正
駿河小島1万石

先代信義の長男として生まれ、寛政12年(1800年)7月に信義の隠居により25歳で封を継いだ。書をよくし、多くの作品を残しているという。
文化12年(1815年)10月6日に長男信友に家督を譲り隠居し、文政3年3月1日に45歳で死去した。

松平信友 まつだいらのぶとも
1797~1848(寛政9~嘉永元)、従五位下、丹後守
駿河小島1万石

先代信圭の長男として生まれ、文化12年(1815年)10月に信圭の隠居により19歳で家督を継いだ。
藩財政の維持に腐心し、先納金、月並出金、御台所賄金の領民への賦課を恒常化し、無尽や講を実施した。
文政13年(1830年)には自ら筆を取り「君臣百姓和同一致」の直印書をしたためて領内に配布し、財政再建に協力を求めた。
天保7年(1836年)5月14日に病により養嗣子信賢に家督を譲り隠居し、嘉永元年3月6日に52歳で没した。

松平信賢 まつだいらのぶます
1808~1873(文化5~明治6)、従五位下、丹後守
駿河小島1万石

丹波亀山藩主松平(形原)信志の六男として生まれ、先代信友の婿養子となり、天保7年(1836年)5月信友の隠居に伴い29歳で家督を継いだ。
天保の大飢饉のなかでの襲封で、領内での不穏な動きに対処したが、藩財政はますます苦境に陥った。
嘉永4年(1851年)4月27日に養嗣子信進に家督を譲り隠居し、明治6年9月11日に66歳で死去。

松平信進 まつだいらのぶゆき
1813~1863(文化10~文久3)、幼名敬次郎、助十郎、従五位下、丹後守
駿河小島1万石

出雲松江藩主松平(越前)斉恒の二男として生まれ、先代信賢の養嗣子となり、嘉永4年(1851年)4月養父信賢の隠居により39歳で家督を相続した。
異国船の出没や来航により領民より稽古人を徴発して鉄砲訓練を行った。財政強化のために有力農民を産物支配方、産物問屋に任命し紙の専売制を行ったが、安政2年(1855年)には紙の仲買に関して押借騒動が起きている。
文久3年正月25日に51歳で死去している。

松平信書 まつだいらのぶふみ
1846~1864(弘化3~元治元)、従五位下、丹後守
駿河小島1万石

先々代信友の二男として生まれ、先代信進の養子となり、文久3年(1863年)に信進の死去により家督を相続したが、在封1年後の元治元年6月12日にわずか19歳で死去した。

松平信敏 まつだいらのぶとし
1851~1887(嘉永4~明治20)、幼名保吉、助十郎、従五位下、丹後守
駿河小島1万石→上総金ヶ崎1万石→上総桜井1万石

信濃高遠藩主内藤頼寧の四男として生まれ、先代信書の婿養子となり、元治元年(1864年)信書の死去により14歳で家督を継いだ。
慶応4年(1868年)7月に徳川家達が駿遠両国70万石を得て駿河府中藩主となると、小島藩は上知となり、代替地として上総国市原郡、望陀郡、周淮郡内に移され周淮郡金ヶ崎に陣屋を構えた。
明治2年(1869年)には金ヶ崎の地が不便であるとして望陀郡貝淵に陣屋を移し桜井藩を立てた。滝脇に改姓し、版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)廃藩置県で免官、明治20年8月10日に37歳で没した。

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