歴史の勉強
(竹谷)

松平信光の二男守家は三河国宝飯郡竹谷郷を領して、竹谷(たけのや)松平家の祖となった。始祖の左京亮守家-左京亮守親-玄蕃允親善と続くが、この三代の事績は不詳である。一説には松平宗家に代々仕えたという。
そのあとの四代清善、五代清宗、六代家清は家康に仕えた。家清は家康の関東移封の際に武蔵国児玉郡内で1万石を与えられ、さらに関ヶ原後は三河吉田3万石に加転封された。
しかし家清の跡を継いだ、七代忠清が慶長17年(1612年)4月に急死し、嗣子が無かったために絶家となったが、忠清は家康生母の於大の方の孫にあたるために、同年11月その弟清昌に5千石が与えられ、その子孫は交代寄合として明治まで続いた。

松平清善 まつだいらきよよし
1505~1587(永正2~天正15)、幼名与二郎

竹谷松平家三代親善の子として竹谷城生まれ、幼名を与二郎という。享禄4年(1531年)3月に家督を相続し、家康に仕えた。永禄5年(1562年)に家康に反抗した鵜殿長照を攻め軍功を挙げ、家康から荻原と鳥河の地に1200貫を与えられた。
三河一向一揆の際にも家康に仕えて活躍し、致仕して嫡子清宗に家督を譲った。その後も元亀3年(1572年)山家三方衆が武田方に通じたときにも、志願して遠江国宇津山城を守備し、家康に忠節を尽くした。天正15年5月23日に83歳で死去した。

松平清宗 まつだいらきよむね
1538~1605(天文7~慶長10)、幼名与二郎

先代清善の嫡子として竹谷城に生まれた。幼少時より家康に仕え、永禄6年(1563年)の三河一向一揆の際には父清善とともに家康に属して活躍した。
一揆鎮圧後に清善より家督を譲られ、翌永禄7年吉田城攻め、永禄11年(1568年)掛川城攻め、元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)長篠の戦い、天正9年(1581年)高天神城攻め、翌天正10年甲斐国攻めなどに従軍して活躍した。
家康が小田原の北条氏直と和睦した際にはその使者を勤め、天正10年に家督を嫡子家清に譲り、駿河国興国寺に隠居領2千貫をもって隠居した。
小牧・長久手の戦いの際には興国寺城を守り、慶長10年11月10日に68歳で死去した。

松平家清 まつだいらいえきよ
1566~1610(永禄9~慶長15)、幼名与二郎、従五位下、玄蕃頭
武蔵八幡山1万石→三河吉田3万石

先代清宗の嫡子として竹谷城に生まれた。天正9年(1581年)に家康の異父妹多劫姫と結婚し、家康から家の字を賜り家清と名乗った。
翌天正10年に家清から家督を譲られ、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際には父の所領の興国寺城を守り、家康の関東移封の際には武蔵国児玉郡八幡山1万石を得た。
天正19年(1591年)の九戸政実の乱では陸奥国に出陣し、慶長5年(1600年)の関ヶ原役では石川康通とともに清洲城を守備した。
翌慶長6年に論功行賞として3万石に加増され三河吉田に転封となり、従五位下玄蕃頭に叙された。在封10年後の慶長15年12月21日に45歳で死去した。

松平忠清 まつだいらただきよ
1585~1612(天正13~慶長17)、幼名万之助、従五位下、民部大輔、玄蕃頭
三河吉田3万石

先代家清の嫡男で、生母は家康の異父妹多劫姫、於大の方の孫にあたる。慶長15年(1610年)に元服し、秀忠から一時を賜り忠清と名乗るが、慶長17年4月20日に28歳で急死した。
突然の死ゆえ嗣子がなく絶家となったが、同年11月に弟清昌に三河国宝飯郡内に5千石が与えられ交代寄合に取り立てられた。家督は清昌のあと清直-清当-義堯-義著-義峯-守惇-守誠-善長-清良-清倫-敬信と継承された。

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