歴史の勉強
(鷹司)

三代将軍家光の正室は関白鷹司信房の娘孝子であり、鷹司家は公家のなかで最高の家柄である五摂家のひとつであった。鷹司松平家は孝子の弟の信平を祖とする家である。
信平は信房の庶子として生まれたため、寺院に入って門跡となるか他の公家の養子となるかしか道がなかった。それを嫌った信平は慶安3年(1650年)、15歳のときに三代将軍家光の正室であった姉の孝子を頼って江戸に出た。
家光は信平に廩米1千俵を与え御家人として取り立てた。承応2年(1653年)に四代将軍家綱の配慮で、紀伊徳川家の松姫と結婚して徳川氏と縁戚関係を結び、翌承応3年には4千俵を加増され、松平姓を許されて、このとき鷹司松平家が成立した。
延宝2年(1674年)に廩米を改めて、上野および上総国内で7千石を与えられる。宝永6年(1709年)に三代信清は1万石に達して上野吉井藩主となり、明治維新まで相伝した。公家から武家へ転身した珍しいケースである。

松平信平 まつだいらのぶひら
1636~1691(寛永13~元禄4)、従四位下、左近衛権少将

関白鷹司信房の子として生まれたが、信房は庶子であり門跡となるか他の公家の養子となるかしか道がなかった。
それを嫌った信平は慶安3年(1650年)、15歳のときに三代将軍家光の正室であった姉の孝子を頼って江戸に出た。従者は一人だけであったという。
家光はこれを歓迎して、廩米1千俵を与え御家人として取り立てた。承応2年(1653年)に四代将軍家綱の配慮で、紀伊徳川家の松姫と結婚して徳川氏と縁戚関係を結び、翌承応3年3月に松平姓を許され、左兵衛督に任ぜられ4千俵を加増された。さらに同年12月には従四位下左近衛権少将に叙任された。
延宝2年(1674年)6月には孝子が死去したが、同年9月に2千俵加増、さらに廩米を上野国碓氷、群馬、緑野、多胡各郡と上総国長柄、夷隅両郡の7千石に改められた。元禄4年7月28日に56歳で死去した。
なお一説に駿河大納言徳川忠長の長子松平長七郎(長頼)が同棲した女みつを鷹司家に預け、みつが産んだ子が鷹司家の猶子となり信平と命名されたとする説があるが、まったくの虚説である。

松平信正 まつだいらのぶまさ
1671~1691(寛文11~元禄4)、幼名福千代、従四位下、近江守、侍従、左兵衛督

先代信平の長子として生まれ、延宝4年(1676年)6歳で従四位下侍従兼近江守に叙任され、元禄3年(1690年)7月に左兵衛督に改めた。
元禄4年(1691年)7月に父信平が死去したために家督を継いだが、同年11月25日にわずか21歳で死去した。

松平信清 まつだいらのぶきよ
1689~1724(元禄2~享保9)、幼名仁十郎、従四位下、越前守、侍従
上野吉井1万石

先代信正の嫡子として生まれ、元禄4年11月に父信正が死去したために家督を継いだ。元禄16年(1703年)12月、15歳のときに従四位下侍従兼越前守に叙任、宝永6年(1709年)4月6日に上野国碓氷、群馬、緑野、多胡各郡で3千石の加増を受け諸侯に列した。
陣屋を多胡郡矢田に構えたが、江戸に定住した。享保9年5月19日に36歳で没した。

松平信友 まつだいらのぶとも
1712~1760(正徳2~宝暦10)、幼名亀丸、従四位下、中務大輔、侍従、越前守
上野吉井1万石

先代信清の長男として生まれた。享保12年(1727年)12月に従四位下侍従兼中務大輔に叙任、寛保3年(1743年)に越前守に改めた。
矢田に置かれていた陣屋を宝暦3年(1753年)に吉井に移した。宝暦10年3月7日に49歳で死去した。

松平信有 まつだいらのぶあり
1731~1793(享保16~寛政5)、幼名豊松、従四位下、民部大輔、侍従、左兵衛督
上野吉井1万石

紀伊大納言宗直の四男として和歌山に生まれ、宝暦10年(1760年)3月に先代松平信友の急養子となり家督を継いだ。
信友の長男は早世し、二男信明は虚弱であったため信有が養子に迎えられたものであった。明和8年(1771年)に養子信明に家督を譲り隠居し、寛政5年6月19日に63歳で死去した。

松平信明 まつだいらのぶあき
1745~1775(延享2~安永4)、幼名友之進、従四位下、大炊頭、式部大輔、侍従、左衛門督
上野吉井1万石

先々代信友の二男として生まれた。宝暦10年(1760年)に父信友が死去したが、信明は虚弱であったために、縁戚の紀州家から信有が養子に迎えられた。
宝暦13年(1763年)4月に信有の養子となり、明和5年(1768年)に従四位下大炊頭に叙任、明和7年(1770年)に式部大輔に改めた。
明和8年(1771年)に信有が隠居したために襲封し、侍従に任じられたが安永4年9月19日に31歳で没した。

松平信成 まつだいらのぶしげ
1767~1800(明和4~寛政12)、幼名栄松、従四位下、左兵衛佐、侍従
上野吉井1万石

先々代信有のニ男として生まれた。安永4年(1775年)9月に先代信明が死去したために、急養子となり家督を継いだ。
天明元年(1781年)に絹糸運上事件による打毀し騒動や天明の大飢饉に見舞われた。寛政12年(1800年)2月7日に養嗣子信充に家督を譲り隠居したが、同年4月19日に34歳で死去した。

松平信充 まつだいらのぶみつ
1775~1803(安永4~享和3)、幼名千之進、従四位下、大蔵大輔、左衛門督、侍従
上野吉井1万石

先々代信明のニ男として生まれた。寛政元年(1789年)に先代信成の長男として生まれ、寛政12年(1800年)に信成隠居により家督となった。
しかし在封わずか3年後の享和3年2月9日に29歳で死去した。

松平信敬 まつだいらのぶよし
1799~1841(寛政11~天保12)、幼名直之進、従四位下、弾正大弼、侍従
上野吉井1万石

先々代信成のニ男として生まれた。享和3年(1803年)2月に先代信充が死去したために、急養子となり家督を継いだ。
藩財政は困窮し、文政4年(1821年)には領内に厳しい倹約令を布き、近江商人松居久左衛門を登用して、一部の藩役人を休職にしたりする財政改革を行った。
一時的に財政は好転したが、絹市に関する紛争や材木不正売却事件など藩政の混乱も多かった。天保12年5月9日に43歳で没した。

松平信任 まつだいらのぶただ
1826~1847(文政9~弘化4)、幼名意之丞、従四位下、左衛門督、侍従
上野吉井1万石

先々々代信成の長男だった房府(ふさもと)の長男として生まれ、天保12年(1841年)5月に叔父にあたる先代信敬が死去したために、急養子となり家督を継いだ。在封は6年と短く、弘化4年5月10日に、わずか22歳で死没した。

松平信発 まつだいらのぶおき
1824~1890(文政7~明治23)、幼名哲丸、和之助、従四位下、左衛門督、侍従、正四位
上野吉井1万石

文政7年に松平維賢(美作津山藩主松平康哉の四男)の三男として津山で生まれ、弘化4年(1847年)に先代信任の急養子となって家督を継いだ。初名を信和という。
聡明であり、兵学や諸外国の動向に精通し、国論の不統一を憂慮していた。水戸斉昭や島津斉彬らとも親交があり、その名は諸大名の間でも知られていた。
ペリー来航に際しては攘夷を国論とするよう進言し、日米修交通商条約には不平等であることを理由に反対した。
安政6年(1859年)に水戸斉昭が安政の大獄により蟄居すると、信発は上使となって水戸家と幕府の間を往来斡旋し、幕府から評価された。
文久元年(1861年)の和宮降嫁に際して信和から信発に改名した。元治2年(1865年)3月26日に致仕して養嗣子信謹に家督を譲ったが、藩政の実権は握り続けた。
明治元年(1868年)に岩倉具視や三条実美から新政府に出仕を求められたが固辞し、信謹の後見に徹した。
慶応4年(1865年)2月22日に藩主信謹とともに松平から吉井に改姓し、明治23年9月2日に67歳で死去している。

松平信謹 まつだいらのぶのり
1853~1890(嘉永6~明治23)、幼名鉄丸、従四位下、左衛門督、侍従
上野吉井1万石

出羽米沢藩主上杉斉憲の五男として生まれ、万延元年(1860年)5月20日に信発の養子となった。元治2年(1865年)3月に信発が致仕して家督を譲られた、12歳で藩主となり信発が後見した。
慶応4年(1868年)2月22日に隠居信発とともに松平から吉井に改姓した。この時に藩内では大規模な世直し一揆が発生した。吉井陣屋を一揆勢に取り囲まれる寸前に、一揆勢の要求を全て受け入れ解散させている。
もともと鷹司松平家は公家の出身であり尊王思想が高く、戊辰戦争では官軍に従い転戦した。
明治2年(1869年)に上野諸藩に先駆けて版籍を奉還し、同年6月24日に藩知事に任じられたが12月25日に辞任し、吉井藩は岩鼻県に併合され廃藩となった。
その後華族に列せられ、明治12年(1879年)に長男信宝に家督を譲り隠居、吉井家と離縁して上杉家に戻り、さらに分家して平民となり、明治23年10月に38歳で死去した。

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