歴史の勉強
(大須賀)

大須賀氏は桓武平氏千葉氏の一族で、鎌倉時代に千葉常胤の四男胤信が下総国香取郡大須賀保を領し、大須賀を称したという。
その子孫の康高は戦国時代に三河国で家康に仕えたが、康高までの系図も不詳であり、康高の出自やなぜ三河に住したかなども不明である。いずれにせよ家康に仕えたのは康高が最初であり、それ以前は松平家臣ではなかったらしい。
ともあれ康高は武功抜群であり、家康の偏諱を与えられている。天正10年(1582年)に遠江横須賀3万石の城主となり、松平姓を下賜された。
康高には嗣子がなく、榊原家から忠政が養子として入った。忠政の子の忠次は榊原家に養子に入り、榊原家を相続したために大須賀家は絶家となった。なお、忠次は榊原家に入っても一代限りで松平姓を許された。

松平康高 まつだいらやすたか
1528~1589(享禄元~天正17)

大名大須賀氏の祖である康高は、大須賀正綱の子として享禄元年に三河国額田郡洞村に生まれた。
通称を五郎左衛門といい、早くから家康に仕えて旗本先手役に任じられ、旗本先鋒として多くの功を挙げた。
とくに天正2年(1574年)からの8年間、武田勝頼により占領された遠江高天神城の抑えとして、同国馬伏塚城にあって武田氏を押さえ、その功により武田氏滅亡後の天正10年(1582年)に横須賀3万石を与えられ、松平姓も賜った。
その後も小牧・長久手の戦いや蟹江城攻略戦、天正13年(1585年)の上田城攻めなどに活躍して功を挙げ、天正17年6月23日に62歳で死去した。

松平忠政 まつだいらただまさ
1581~1607(天正9~慶長12)、幼名国千代、従五位下、出羽守
上総久留里3万石→遠江横須賀6万石

徳川四天王のひとり榊原康政の嫡男として生まれ、母は先代康高の女であった。康高に嗣子がなかったために、その養子となり家督を継いだ。
天正18年(1590年)に家康の関東入部により上総久留里3万石を与えられ、慶長4年(1599年)に従五位下、出羽守に叙任された。
慶長5年(1600年)の関ヶ原役では当初康政の居城館林城の守備にあたったが、その後参陣し、戦後3万石を加増され遠江横須賀に転封された。
横須賀では天守閣を造営するなど城郭や城下の整備、さらに検地を行うなど藩政の基礎確立に取組んだ。
慶長12年(1607年)に病を得て、京に上って養生に努めたが、同年9月11日に27歳の若さで没した。

松平忠次 まつだいらただつぐ
1605~1665(慶長10~寛文5)、幼名国千代、従四位下、式部大輔、侍従
遠江横須賀6万石(除封)

先代忠政の長男として遠江横須賀で生まれ、慶長12年(1607年)に忠政が死去したために3歳で家督を継いだ。
当時駿府城主であった徳川頼宣の与力となり、藩政は頼宣の付家老であった安藤直次が沙汰した。
長じてからは、大坂の陣では周囲の静止も聞かず戦場にとどまり、武勇の片鱗を見せ付けたという。
一方、元和元年(1615年)に榊原家二代当主の康勝が26歳の若さで京都において病没し、嗣子がなかったために榊原家は断絶の危機に直面した。
これを惜しんだ家康は忠次に榊原家の継承を命じ、これにより忠次は上野館林藩主となり、遠江横須賀6万石は収公され大須賀松平家は絶家となった。
なお、忠次は寛永20年(1643年)に陸奥白河14万石、慶安2年(1649年)播磨姫路15万石と転封された後、寛文5年(1665年)3月29日61歳で死去した。

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