歴史の勉強
(大草)

松平信光の五男光重が三河国額田郡大草郷を領したことで、大草(おおくさ)松平家といわれた。大草郷は大草氏の領地であったが、のちに西郷氏の所領となった。西郷氏は大草氏の一族と思われており、光重は文明4年(1472年)頃に西郷頼嗣の娘婿となって西郷氏とも名乗り、また岡崎松平家とも呼ばれた。
光重の跡を親貞が継ぎ、親貞を継いだ三代信貞は武威を誇って宗家の清康と対立し、清康から岡崎城を明け渡すように要求されるが拒否し、結局清康に攻められて隠居させられる。
四代昌久は一向一揆に加担したが、五代正親以後は松平宗家に服属した。六代康安は家康に仕えて戦功を挙げて6千石の旗本なるが、その孫の正永が嗣子無くして没し絶家となった。

松平信貞 まつだいらのぶさだ
?~1525(?~大永5)

西郷頼嗣の二男として岡崎城生まれ、先代親貞に子がなかったために、その養嗣子となって大草松平家を継いだ。
岡崎城と額田郡山中城を領して武威を誇っていたが、宗家の清康は大永4年(1524年)、野心を持ち独立志向の強かった、信貞に対して城の明け渡しを迫り、拒否されると電撃的に山中城を攻め落とした。
この攻撃は信貞を大いに畏れさせ、信貞は謝罪したうえで娘の於波留を清康に嫁がせて岡崎城を明け渡し、大草城に隠棲した。大永5年7月22日大草にて没。

松平昌久 まつだいらまさひさ
?~?(?~?)、幼名七郎

先代信貞の嫡子として生まれ、永禄6年(1563年)に三河一向一揆が起きると、一揆の首謀者の一人である東条城主吉良義昭に一味して、東条城に籠城した。翌永禄7年に家康に攻められると、義昭とともに逃亡したとされる。

松平正親 まつだいらまさちか
1512~1560(永正9~永禄3)、幼名善四郎

昌久の孫で広忠、家康に仕え、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで戦死した。

松平康安 まつだいらやすやす
1555~1623(弘治元~元和9)、幼名善四郎

正親の嫡男で、通称は善兵衛。家康の嫡男信康に仕え、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いなどで活躍し、天正7年(1579年)に信康が自刃すると家康に仕えた。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正18年(1590年)の小田原征伐、慶長19年(1614年)の大坂夏の陣や翌年の冬の陣などで活躍し、6千石を与えられている。元和9年5月2日に69歳で死去した。

松平正朝 まつだいらまさとも
?~?(?~?)、幼名善四郎

康安の嫡男で、家康に仕えて天正18年(1590年)の小田原征伐や翌年の陸奥国の九戸政実の乱の鎮圧に活躍した。
関ヶ原役では秀忠軍に属し、大坂の陣にも従軍し、駿河大納言忠長付きとなる。忠長改易の際に正朝も所領を没収されるが、のちに赦されて水戸藩に仕えて家老となった。
正朝の嫡子正永が家督を相続したが無嗣で死去したために大草松平家は絶家となった。


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