歴史の勉強
(越智)

四代将軍家綱の弟綱重は甲府に封ぜられ、甲府宰相といわれた。綱重の庶子である清武の生母は於保良というが、於保良は清武を身篭ったまま家臣越智喜清に下げ渡された。これは綱重が関白二条光平の女と婚約したための遠慮であった。
清武は越智家で生まれ、越智家で育てられ、喜清の死後は越智家を継いだ。宝永元年(1704年)に清武の兄綱豊が五代将軍綱吉の養子となって世嗣となると、清武は寄合衆に列して2千石を与えられた。
宝永3年(1706年)には1万石与えられて諸侯に列し、翌宝永4年には松平姓を賜り越智松平家と称した。さらに加増があり2万4千石の上野館林藩主とり、将軍であった兄家宣が死去するとその遺言で加増され、それ以前の加増分と合わせ封地は5万4千石となった。
その後は三代武元のときに一時的に陸奥棚倉に転封されたが、再び館林に復帰し、五代斉厚のときの天保7年(1836年)に石見浜田6万1千石に移され定着した。

松平清武 まつだいらきよたけ
1664~1724(寛文4~享保9)、幼名熊之助、従四位下、出羽守、侍従、右近将監
上野館林5万4千石

甲府宰相徳川綱重の二男であるが、出生前に生母お保良が家臣越智善清に下げ渡されたために、越智家で育てられ善清の跡を継いで越智氏を名乗った。
兄の綱豊が宝永元年(1704年)に五代将軍綱吉の養子となり将軍世嗣となると、清武も寄合衆に列して2千石を与えられ、のちに2千石加増、さらに宝永3年(1706年)には1万石与えられて諸侯に列した。
翌宝永4年には松平姓を賜り越智松平家と称し、上野館林に封ぜられ、上野邑楽郡内に1万石を加増され都合2万4千石となった。
宝永7年(1710年)には上野国邑楽郡下野国安蘇郡・都賀郡、武蔵国埼玉郡、播磨国美嚢郡に1万石を加増された。
兄綱豊は六代将軍家宣となったが、家宣没後にはその遺言によって越後国岩船、蒲原両郡で2万石が加増され5万4千石を領した。
館林では天和3年(1683年)に城が破却されていたために、再築城に着手した。また館林在封中の享保3年(1718年)冬に重税を課したことに端を発し、年貢減免を要求する農民が蜂起し、江戸藩邸に強訴に及ぶ騒動が起きた。この結果農民の要求をいれ年貢は半減され、騒動は治まった。
城が完成を見ることなく、享保9年9月16日に61歳で死去した。

松平武雅 まつだいらたけまさ
1702~1728(元禄15~享保13)、幼名新之助、従五位下、肥後守
上野館林5万4千石

尾張松平家の分家である美濃高須藩主松平義行の二男として生まれ、前名を行高という。先代清武の嫡子清方が享保9年(1724年)1月に没したために、清武の養嗣子となって同年10月29日に家督を許されたが、享保13年7月28日に27歳で死去した。

松平武元 まつだいらたけちか
1716~1779(享保元~安永8)、幼名源之進、従四位下、右近将監、侍従
上野館林5万4千石→陸奥棚倉5万4千石→上野館林6万1千石

水戸徳川家の分家である常陸石岡藩主松平頼明の三男として生まれ、先代武雅の養嗣子となった。享保13年(1728年)に武雅が死去し、13歳で襲封した。
同年9月に陸奥国棚倉に移封され、元文4年(1739年)奏者番、延享元年(1744年)寺社奉行兼帯となる。翌延享2年9月に家重が九代将軍に就任するとその補佐役を命ぜられ、延享3年には館林に再封された。
延享4年(1747年)9月に老中に就任し、明和元年(1764年)に7千石を加増された。謹厳で学問を好み、安永8年7月20日に64歳で死去した。

松平武寛 まつだいらたけひろ
1754~1784(宝永4~天明4)、幼名久五郎、従五位下、主計頭、右近将監
上野館林6万1千石

先代武元の四男として生まれ、安永8年(1779年)に父武元が死去したために家督を継いだ。翌安永9年奏者番に就任したが、天明4年3月26日に31歳で死去した。

松平斉厚 まつだいらなりあつ
1783~1839(天明3~天保10)、幼名久五郎、従五位下、従四位下、従四位上、右近将監、侍従、左近衛権少将
上野館林6万1千石→石見浜田6万1千石

先代武寛の嫡子として江戸に生まれ、初名は武厚という。天明4年(1784年)に武寛の死去によりわずか2歳で襲封した。
天明6年(1786年)7月の洪水の際には重臣協議の上で幼君を助け救済にあたり、老中松平定信より賞せられた。
寛政7年(1795年)には藩校道学館を設ける。享和2年(1802年)に奏者番、文化10年(1813年)寺社奉行兼帯となる。文政5年(1822年)に将軍家斉の十九男徳之進を養子として将軍家との関係を深めた。
天保5年(1834年)に家斉の偏諱を賜って斉厚と改め、天保7年(1836年)3月に石見浜田に転封となった。領内に穀倉を設け奢侈を戒めたが、入国することなく天保10年11月5日に57歳で江戸にて死去。

松平武揚 まつだいらたけおき
1827~1842(文政10~天保13)、幼名鋭之助、従四位下、右近将監
石見浜田6万1千石

讃岐高松藩主松平(水戸)頼恕の三男として高松で生まれ、天保10年(1839年)に先代斉厚の急養子となり、斉厚の三女と結婚し斉厚の死去により、同年12月27日に13歳で家督を継いだ。しかし3年後の天保13年7月28日にわずか16歳で死去した。

松平武成 まつだいらたけなり
1825~1847(文政8~弘化4)、従五位下、右近将監
石見浜田6万1千石

美濃高須藩主松平(尾張)義建の三男として生まれた。先代武揚の急養子となり、天保13年(1842年)に18歳で家督を継いだ。たけしげともいう。
襲封時には藩財政は悪化し、負債は13万両に達しており、倹約令を発し藩札を発行した。しかし藩札を濫発したために物価が高騰した。
一方で波子浦において軍事教練を実施した。弘化3年(1846年)に肥後の政治家・思想家横井小楠の意見を聞いたうえで、藩財政整理に着手し、山林経営、鉱山開発、製鉄、製紙、養蚕などを奨励したが、成果をあげることなく弘化4年9月20日に23歳で没した。

松平武聰 まつだいらたけあきら
1842~1882(天保13~明治15)、幼名十郎麿、従四位下、右近将監、侍従
石見浜田6万1千石

水戸藩主徳川斉昭の十男として生まれ、弘化4年(1847年)先代武成の急養子となり、わずか6歳で家督を継いだ。
襲封後ただちに倹約令を発し、河鮨監物を登用して財政立て直しを図り、植林・石見半紙・養蚕などを奨励し、藩債を減じた。
慶応2年6月の長州征伐では益田口の戦いで大敗し、重病に罹っていた武聰は陣を脱出した。そのために士気が落ち、長州軍に侵攻を許し、浜田城に火を放って豊後国杵築に逃亡した。
さらに松江に入り鳥取に移る。浜田は長州軍に占領されたために飛地の美作鶴田に入り鶴田藩となった。のちに鶴田藩は加増され6万1千石に復す。鶴田藩知事を経て廃藩置県により免職、明治15年11月7日に41歳で死去。


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