歴史の勉強
(三木)

松平信忠の二男信孝は最初三河国額田郡合歓木城を与えられたが、のちに三木城に移り三木(みつぎ)松平家を名乗った。
信孝は広忠に仕えて忠誠を尽くしたが、のちには広忠の信頼を背景に驕慢な行動を繰り返し、一族の岩津松平氏や鵜殿松平氏の所領を押領し、松平宗家を凌ぐ勢力になっていた。
そこで広忠は信孝を放逐し、これ以後信孝は広忠に敵対、岡崎攻撃を企だてるが失敗して戦死した。
信孝の嫡子重忠は父と違って家康の仕え、旗本となった。重忠の跡を継いだ忠清も旗本となったが、嗣子なくして没して三木松平家は絶家となった。
忠清の弟忠利は重忠の遺領5百石を分与されて別家し、この系統は旗本として存続した。

松平信孝 まつだいらのぶたか
?~1548(?~天正17)

松平宗家六代信忠のニ男として生まれ、通称は蔵人。信孝の甥で宗家八代広忠は家督当時10歳であり、元服前であった。
ここに桜井松平信定は行動を起して、岡崎城押領に動き、広忠は危険を感じた家臣により岡崎城を脱出し諸国を流浪した。
天文6年(1536年)6月に広忠は岡崎復帰を果たすが、この復帰の際に岡崎城城門を守備していたのが信孝であった。
信孝は広忠の岡崎に協力し、これにより広忠の篤い信頼を得たが、その信頼を背景に驕慢な行動を繰り返し、一族の岩津松平氏や鵜殿松平氏の所領を押領し、松平宗家を凌ぐほどになった。
このために広忠は、信孝を駿府の今川家に使いに出し、その間に信孝の本拠三木城を奪って、信孝の妻子を追放した。
驚いた信孝は、今川義元を通じて謝罪したが、広忠はこれを聞き入れず、以後信孝は広忠を恨み織田に通じた。
信孝は安祥城の近くに山崎城を築き、宗家の兵とたびたび戦いを交えたが、天文17年(1547年)に第二次小豆坂の戦いで織田軍が敗れると岡崎城を急襲した。
これに対し広忠方は信孝討伐の好機として迎撃し、酒井正親、石川清康らの活躍で、長年にわたり広忠を悩ませていた信孝を討ち取った。
兄五井松平家の祖忠景の嫡男として五井城生まれ、通称を太郎左衛門、本名を長勝という。
松平宗家五代の長親に仕え、三河国額田郡深溝城主大庭朝満を攻め、その功によって深溝城を与えられた。元心は弟の忠定に深溝城を与え、忠定は深溝松平家の祖となった。永禄5年7月26日に82歳で没したとされる。

松平重忠 まつだいらしげただ
1540~1601(天文9~慶長6)、幼名九郎右衛門

先代信孝の嫡子として合歓木城で生まれた。父の信孝は宗家に叛いたが、重忠は家康に仕え、家康の関東移封後は大番頭となった。
慶長5年(1600年)に致仕して嫡子忠清に家督を譲り、翌慶長6年12月2日に62歳で死去した。

松平忠清 まつだいらただきよ
1570~1601(元亀元~慶長6)、幼名与十郎

先代重忠の嫡子として生まれ、慶長5年(1600年)に重忠が致仕して家督を譲られた。大番頭となるが、翌慶長6年12月22日に父の後を追うように32歳で死去した。
忠清には男子がなかったために絶家となったが、忠清の弟の忠利は父重忠から5百石を相続しており、別家を興した。
忠利は秀忠に仕えて関ヶ原役にも秀忠に属して従軍し、慶長12年(1607年)から伏見城番を勤めた。しかし落度により改易されてしまう。
大坂夏の陣に井伊直孝に属して功を挙げて赦され、大番頭に任ぜられて3百俵を与えられ、その子孫は旗本として継承した。

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