歴史の勉強
(松井)

松井氏は清和源氏といわれ、六条判官源為義の子の松井冠者維義の十五代後裔松井惣左衛門為維の子の忠直を祖とする。
また源満政の六代後裔源重行が頼朝に仕えて山城国綴喜郡松井の地頭となり、その十二代後裔経之の二男宗之が三河国に移り、その四代後裔が忠直であったともいう。
忠直は松平広忠に仕えて功を挙げ、その子の康親も家康に仕えた。康親は東条松平家の義春が弘治2年(1556年)に戦死すると、義春の子の亀千代の後見役をつとめた。
康親は各地の戦いに功を重ね、永禄7年(1564年)に松平姓を賜ったが、天正11年(1583年)に北条氏親との戦いの際に戦死した。跡を継いだ康重は、家康の関東移封の際に武蔵私市2万石を与えられた。
関ヶ原後は常陸笠間3万石、丹波八上(篠山)5万石、和泉岸和田6万石と移った。その子孫は各地を転封し十二代康英は、幕末の慶応2年(1866年)に8万石で武蔵川越藩主となり、明治元年(1868年)に松井姓に復した。

松平康親 まつだいらやすちか
1521~1583(大永元~天正11)

松井忠直の子として三河国幡豆郡饗場に生まれ、家康に従って三河国内各地の戦いで功を挙げた。初名を忠次という。
弘治2年(1556年)2月に東条松平家の義春が奥平貞友との戦いで戦死し、義春の子の亀千代が家督を継いだが、幼少であったために康重が後見した。
永禄4年(1561年)には津平砦によって家康に反抗した東条城主吉良義昭を攻め、義昭が赦されたあとも砦に留まり監視役をつとめ、その後に津平郷を与えられた。
翌永禄5年の上ノ郷城攻め、永禄6年の三河一向一揆との戦いでも功を重ね、永禄7年に東条城主となり幡豆郡内で3万5千貫文を与えられて、松平姓を賜った。
元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦いでも活躍し、同年8月に遠江国諏訪原城を攻め落とし、城主となった。このときに家康から康の字を賜って康重と改名した。
天正9年(1581年)に家康の四男於次丸が東条松平家を継ぐと、その後見役となり、さらに駿河国沼津の三枚橋城主となった。天正11年には山中城主北条氏親と戦い、同年6月17日に陣中で没した。63歳であった。

松平康重 まつだいらやすしげ
1568~1640(永禄11~寛永17)、幼名次郎、従五位下、周防守、従四位下
武蔵私市2万石→常陸笠間3万石→丹波篠山5万石→和泉岸和田6万石

先代康親の嫡子として東条城で生まれた。康重の母は家康の侍女であった賀茂氏で、康親に嫁したときに既に懐妊していたといわれ、康重は家康の落胤との説に繋がる。
天正11年(1583年)3月に元服し、家康から一字を賜り康次と名乗る。同年6月に父康親が後北条氏との戦いの際に陣中で没したために家督を相続し、三枚橋城主となる。
翌天正12年の小牧・長久手の戦いや天正13年(1585年)の信濃上田城攻めに参陣、天正18年(1590年)の秀吉の小田原征伐の際にも活躍した。同年に家康が関東に移封されると武蔵私市2万石を与えられた。
入封後は城下町の建設や領内の整備を行い、文禄元年(1592年)の文禄の役では家康に従って肥前名護屋城に在陣した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原役では掛川城を守備し、戦後1万石を加増されて常陸笠間に転封となった。慶長13年(1608年)8月には2万石を加増され丹波八上に移されたが、家康はこの地を豊臣氏と西国大名の抑えの地として重要視し、西国大名らに普請を手伝わせて篠山城を築き、翌慶長14年に完成後は康重は初代篠山城主となった。
大坂の陣にも出陣し、元和5年(1619年)7月に1万石を加増され和泉岸和田に転封となった。寛永11年(1634年)には三代将軍家光の上洛に供奉し、寛永17年6月27日に73歳で没した。

松平康映 まつだいらやすてる
1615~1674(元和元~延宝2)、幼名松千代、従五位下、淡路守、周防守
和泉岸和田6万石→播磨山崎5万4百石→石見浜田5万4百石

先代康重の二男で、寛永7年(1630年)に兄の康政が死去したために嫡子となり、寛永17年(1640年)に康重の死去により家督を継いだ。
その際に5千石を甥(康政の長男)の康朗に、3千石を弟の康命に、2千石を同康紀に分与した。寛永17年9月に播磨山崎に移封となった。
山崎では善政を布いたとされ、城下は発展繁栄し、農民の生活も安泰であったというが、在封9年後の慶安2年(1649年)8月に石見浜田に転封された。
翌慶安3年に掟書を公布し、承応元年(1652年)には領内の検地を実施した。延宝2年(1674年)12月晦日に60歳で死去した。

松平康官 まつだいらやすのり
1657~1727(明暦3~享保12)、幼名松千代、従五位下、主計頭、周防守、弾正少弼
石見浜田5万4百石

先代康映の三男として浜田に生まれ、兄たちが早世したために嫡子となり、延宝2年(1674年)に父康映が死去したために家督を継いだ。前名を康長、康賛(やすよし)と称した。
延宝4年(1676年)に父の遺志により叔父康明に新田2千石を分与したが、貞享2年(1685年)に康明が嗣子なくして没するとその領地は還付された。
宝永元年(1704年)9月に江戸城筋違御門の普請手伝いをし、翌宝永2年正月27日に致仕して家督を嫡子康員に譲り、22年間の隠居生活の後、享保12年4月9日に浜田に於いて71歳で死去した。

松平康員 まつだいらやすかず
1679~1713(延宝7~正徳3)、幼名仙次郎、源之助、従五位下、采女正、和泉守、備中守、周防守、伊勢守
石見浜田5万4百石

先代康官の嫡子として生まれ、宝永2年(1705年)正月に父康官の隠居により家督を継いだ。宝永6年(1709年)2月に領内に大火があり、領民救済にあたる。同年9月18日に病の為に在封わずか5年で隠居し、養子の康豊に家督を譲った。正徳3年3月22日に江戸において35歳で死去した。

松平康豊 まつだいらやすとよ
1685~1735(貞享2~享保20)、幼名伝十郎、従四位下、周防守
石見浜田5万4百石

分家の松平康郷の長男として生まれた。先代康員の嫡子康房は早世し、また康員も病弱であったために、家督を巡って分家の松平康納と松平康郷のあいだで激しい対立が起きた。
次第に康郷派が優勢となり、宝永6年(1709年)8月2日に康豊が康員の養子となり、同月15日に将軍家宣に初見、9月18日に康員が隠居した家督となった。
襲封後は反対派を遠ざけるとともに、襲封に功のあった家臣を引き立てた。享保元年(1716年)の飢饉の際には一揆が起き、課税法である春定を2年間停止することとなった。
また享保9年(1724年)には江戸藩邸において奥女中沢野を中老岡本道の侍女松田察が殺害して主人の怨みを晴らした鏡山事件があった。病により享保20年12月5日に51歳で死去した。

松平康福 まつだいらやすよし
1719~1789(享保4~寛政元)、幼名団之助、従五位下、周防守、従四位下、侍従
石見浜田5万4百石→下総古河5万4百石→三河岡崎5万4百石→石見浜田6万4百石

先代康豊の長男として生まれ、享保20年(1735年)康豊死去により家督となった。寛延2年(1749年)12月奏者番、宝暦9年(1759年)正月寺社奉行兼帯となり下総古河に転封となった。
翌宝暦10年8月大坂城代、宝暦12年(1762年)9月に三河岡崎に転封、同年12月西の丸老中となり侍従に任ぜられた。
明和元年(1764年)5月には本丸老中となった。翌明和2年に七代将軍家継五十回忌を奉行し、明和6年(1769年)11月には石見浜田に再転封された。
安永5年(1776年)の家治の日光社参に供奉し、安永8年(1779年)には家光、家綱の御霊屋の修繕にあたり、安永10年(1781年)正月には秀忠百五十回忌を奉行した。
天明3年(1783年)の飢饉に際しては米倉を開いて領民救済にあたり、このころから領内で藺草を植え畳表の製造普及を行った。
天明5年(1785年)に1万石を加増される。翌天明6年老中田沼意次が失脚後は一時的に老中首座となったが、松平定信の老中就任により天明8年(1788年)4月に老中を辞任して致仕し、寛政元年2月8日に71歳で死去した。

松平康定 まつだいらやすさだ
1747~1807(延享4~文化4)、幼名吉五郎、従五位下、左京亮、周防守
石見浜田6万4百石

旗本前田房長の三男として生まれ、はじめ分家の松平康敬の養子となるが、先代康福に嗣子がなかったために明和5年(1768年)10月に康福の婿養子となった。
天明8年(1788年)4月6日に康福が致仕し家督を譲られた。寛政3年(1791年)7月に東海道や甲斐国の諸河川改修の工事を勤め、寛政7年(1795年)12月奏者番となった。
康定は国学に学識深く、本居宣長に教えを請い、寛政3年7月には国学者を中心に藩校長善館を開校した。
寛政10年(1798年)5月に寺社奉行兼帯となるが、享和3年(1803年)7月には病により寺社奉行のみ辞職。文化4年3月23日に江戸において61歳で死去。

松平康任 まつだいらやすとう
1780~1841(安永9~天保12)、幼名岩吉郎、軍次郎、従五位下、左京亮、周防守、従四位下、侍従、下野守
石見浜田6万4百石

分家の松平康道の嫡男として生まれ、先代康定の娘婿となった。文化4年(1807年)3月に康定が死去し、家督となった。
文化7年(1810年)に起きた浜田城下の大火の際には領民の救済に勤めた。文化9年(1812年)3月奏者番、文化14年(1817年)8月寺社奉行兼帯、文政5年(1822年)7月大坂城代、文政8年(1825年)には京都所司代となり侍従に任ぜられた。
翌文政9年11月には西の丸老中、さらに本丸老中となるが、幕閣高位になるにつれて出費が嵩み藩財政は逼迫し、領内に無尽講を起し質素倹約令を発した。
天保6年(1835年)10月に仙石騒動に関係したとされて老中を辞し、同年12月9日に隠居して下野守となり、家督は嫡子康爵に譲った。
翌天保7年に藩御用の会津屋清助による竹島での密貿易が発覚し、同年12月23日に永蟄居となり、天保12年7月22日に江戸において62歳で死去した。

松平康爵 まつだいらやすたか
1810~1868(文化7~慶応4)、従五位下、左近将監、周防守
石見浜田6万4百石→陸奥棚倉6万4百石

先代康任の二男として生まれ、天保6年(1835年)12月に康任が隠居したために家督となった。襲封直後に和紙の専売をはじめたが、翌天保7年6月に藩御用の会津屋清助による竹島での密貿易が発覚し、同年9月には陸奥棚倉に移された。
棚倉転封後は藩政はほとんどとれず、天保15年(1844年)1月に譜代大名取締を命ぜられるも、弘化3年(1846年)9月に病気により辞任した。
安政元年(1854年)9月16日に弟康圭に家督を譲り隠居し、慶応4年5月3日に59歳で死去した。

松平康圭 まつだいらやすかど
1821~1862(文政4~文久2)、従五位下、左近将監、周防守
陸奥棚倉6万4百石

先々代康任の三男として生まれ、安政元年(1854年)9月に兄康爵が隠居したために家督となった。
領内の経済発展に意を注ぎ、祭りや盆踊りを奨励したが、在封8年後の文久2年8月22日に42歳で死去した。

松平康泰 まつだいらやすひろ
1849~1864(寛永2~元治元)、幼名磐若、従五位下、周防守
陸奥棚倉6万4百石

先代康圭の長男として生まれ、文久2年(1862年)8月に父康圭が死去したため14歳で家督を継いだ。
若年であるうえに病弱であったために、直接藩政を見ることなく、もっぱら江戸屋敷で療養に努めた。
元治元年の水戸天狗党の乱では、幕府の追討令を受けて、城代家老岡田竹右衛門も指揮の下、土浦・潮来から磯浜まで出兵し敗走させたほか、八溝山に籠る天狗党約300を掃討した。
しかし康泰はこれらに直接関わることなく、元治元年11月18日にわずか16歳で死去した。

松平康英 まつだいらやすひで
1830~1904(天保元~明治37)、幼名万太郎、従四位下、周防守
陸奥棚倉6万4百石→武蔵川越8万4百石

分家の旗本松平康済の長男として生まれ。初名を康直という。
嘉永元年(1848年)9月に駿府加番、安政2年(1855年)江戸火事場見廻役、安政5年(1858年)11月寄合肝煎、翌12月講武所頭取、安政6年(1859年)12月に外国奉行兼神奈川奉行となった。
文久3年(1863年)に幕命にて渡欧、同年8月に勘定奉行、文久4年(1864年)正月に将軍上洛の御供掛兼道中奉行、同年6月大目付となり江戸南町奉行となったが、同年11月に棚倉藩主康泰が死去したために、本家を相続し棚倉藩主となり、翌元治2年に名を康英と改めた。
ただちに奏者番兼寺社奉行に任ぜられ、同年2月に老中に就任して難局を処理し、同年12月に2万石を加増され、翌慶応2年10月には武蔵川越に転封となった。
しかし大政奉還、王政復古と時勢は急変し、慶応4年(1868年)2月に老中を辞任し朝廷に対して恭順の意を示したが、2万石を没収され謹慎を命じられた。
戊辰戦争の際には松井姓に改姓し、ひたすら官軍に協力して赦され、明治2年(1869年)3月4日に養子康載に家督を譲り隠居し、明治37年7月5日に75歳で死去した。

松平康載 まつだいらやすとし
1854~1880(安政元~明治13)、幼名錦之進、従五位下、周防守
武蔵川越8万4百石

信濃松本藩主戸田光庸の六男として生まれ、明治元年8月29日に先代康英の養子となった。康英の隠居により、明治2年(1869年)3月に家督を相続した。
相続と同時に版籍奉還して川越藩知事、明治4年には廃藩置県で免官となった。藩知事時代の2年間に藩政改革を試みたが財政難で進展はなかった。またこの間に康英時代に没収された2万石が返還されている。明治13年4月14日に27歳で没したとされるが、死没については大正12年9月30日ともいわれている。

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