歴史の勉強
(形原)

松平信光の四男与副(ともすけ)にはじまる家で、三河国宝飯郡形原郷を本拠としたために形原(かたのはら)松平家とよばれた。
初代の与副は与嗣(ともつぐ)ともいい、その跡を貞副-親忠と継ぐが、事績は不明であり、松平宗家に仕えたと考えられる。
四代家広、五代家忠は家康に仕えて軍功を樹て、六代家信のときに家康の関東移封のともない上総国五井で5千石を与えられた。
家信は関ヶ原後に領地を故地の形原に移され、元和2年(1616年)4月に5千石を加増され諸侯に列した。その後摂津高槻2万石、下総佐倉4万石と加転封され、その子孫は再び高槻、丹波篠山、丹波亀山と転封され、亀山藩主で明治維新を迎えた。

松平家広 まつだいらいえひろ
?~1571(?~元亀2)、幼名左太郎、又七郎

形原松平家三代親忠の子として形原城で生まれた。幼名は左太郎、のち又七郎。はじめ左近将監のちに薩摩守を称す。正室は水野忠政女で、家康生母於大とは姉妹となる。
広忠、家康に仕えて軍功を樹てたといわれる。元亀2年2月29日に形原にて没した。

松平家忠 まつだいらいえただ
1547~1582(天文16~天正10)、幼名左太郎、又七郎

先代家広の嫡子として形原で生まれた。生母は水野忠政女で、家康生母於大の甥であり、家康は母方の従兄弟にあたる。幼名は左太郎、のち又七郎、紀伊守を称す。
家康に従い、永禄12年(1569年)掛川城攻め、元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)長篠の戦い、天正10年(1582年)甲州攻めなどで活躍したが、同年10月16日に36歳で死去した。

松平家信 まつだいらいえのぶ
1565~1638(永禄8~寛永15)、幼名紀太郎、又七郎、従四位下、紀伊守
三河形原1万石→摂津高槻2万石→下総佐倉4万石

先代家忠の嫡子として形原で生まれた。初名は家副(いえすけ)といった。天正10年(1582年)7月に酒井忠次のつき、父家忠とともに信濃高島城に諏訪頼忠を攻め功を挙げ、天正12年(1584年)には小牧・長久手の戦いでも活躍した。
天正18年(1590年)の小田原攻めでは富士川架橋を指揮し、同年の家康の関東移封に伴い上総五井5千石を与えられる。慶長5年(1600年)関ヶ原役では江戸城西の丸の守備にあたり、戦後三河形原を与えられた。
慶長19年(1614年)大坂冬の陣では駿府城守備ののちに大坂に赴き、翌年の夏の陣の際は病により嫡子康信を代陣させた。
秀忠の信任が篤く、元和4年(1618年)9月に、安房国長狭郡内に5千石加増され諸侯となり形原藩を立藩した。
元和5年(1619年)9月摂津高槻2万石に転封、さらに寛永12年(1635年)2月に2万石加増のうえ下総佐倉4万石に移されたが、3年後の寛永15年正月14日に74歳で死去。

松平康信 まつだいらやすのぶ
1600~1682(慶長5~天和2)、幼名又七郎、従五位下、従四位下、若狭守
下総佐倉3万6千石→摂津高槻3万6千石→丹波篠山5万石

先代家信の二男として生まれた。元和元年(1615年)の大坂夏の陣の際には、病気の父家信に代って出陣し、徳川頼宣のもとで活躍。元和5年(1619年)に父家信が摂津高津藩主となると5千石を分与された。
寛永15年(1638年)5月16日に家信の遺領を相続したが、このとき2人の弟氏信と信忠に各2千石を分与した。
寛永17年(1640年)9月に家信の前封地の摂津高槻に転封となり、さらに慶安2年(1649年)7月に1万4千石加増のうえ丹波篠山に移封された。
篠山では円通寺建立など寺社の保護に務めた。万治3年(1660年)の大坂城落雷の際には石垣、櫓の修復を命じられた。
寛文9年(1669年)9月29日に高齢により致仕し、長男典信に家督を譲り隠居、別峯と号した。しかし典信は在封3年で死去し、その跡の信利、信庸がいずれも幼少のために康信が後見した。
天和2年6月13日に83歳の高齢で、篠山において死去した。

松平典信 まつだいらすけのぶ
1629~1672(寛永6~寛文12)、幼名又七郎、従五位下、大和守、駿河守
丹波篠山5万石

先代康信の長男として摂津高槻に生まれた。寛文9年(1669年)9月に父康信の隠居により襲封した。玉水の清泉を復活して飲料、造酒、灌漑に用いたとある、
在封わずか3年、寛文12年11月20日に44歳で江戸において病没した。

松平信利 まつだいらのぶとし
1659~1676(万治2~延宝4)、幼名又七郎、従五位下、主膳正
丹波篠山5万石

先代典信の二男として江戸で生まれた。寛文12年(1672年)に父典信が病没し、翌寛文13年正月に家督を継いだ。襲封時にまだ15歳であったために先々代康信が後見した。
延宝3年(1675年)に出府途中で発病して急遽帰国、翌延宝4年11月28日に18歳で、篠山にて病死した。

松平信庸 まつだいらのぶつね
1666~1717(寛文6~享保2)、幼名九十郎、従五位下、従四位下、豊前守、紀伊守、侍従
丹波篠山5万石

先々代典信の三男として江戸で生まれた。延宝4年(1676年)11月19日に兄で先代の信利の養子となり、同月18日に信利の死去により襲封した。初名を政信と称す。襲封時12歳であったために先々々代康信が後見した。
延宝8年(1680年)に名を信慈(のぶしげ)と改め、元禄6年(1693年)にはさらに信庸と改名した。元禄10年(1697年)4月に京都所司代となり従四位、侍従に昇任、正徳4年(1714年)には老中となった。
藩政では元禄16年(1703年)に洪水、宝永6年(1709年)旱魃、正徳5年(1715年)に洪水と度々天災に見舞われ、この間に一揆が起きた。
学問を好み、「篠山領地誌」「篠山封彊志」を編纂させ完成している。在封は41年に及び、享保2年5月10日に52歳で死去している。

松平信岑 まつだいらのぶみね
1696~1763(元禄9~宝暦13)、幼名九十郎、又七郎、従五位下、従四位下、佐渡守、紀伊守
丹波篠山5万石→丹波亀山5万石

先代信庸の長男として生まれ、享保2年(1717年)に父信庸死去により22歳で家督を継いだ。享保20年(1735年)奏者番兼寺社奉行となった。
先代信庸と同じく学問好きで、召抱えの和算・経済の学者万尾時春は測量器を発明し「勧農固本録」「井田図考」「見立算規矩分等集」などを著している。
一方藩内では享保8年(1723年)以降に洪水、旱魃、天候不順などによって不作が相次いで、一揆が繰り返し起こった。
寛延元年(1748年)8月3日に丹波亀山に転封となり、宝暦13年11月20日に68歳で亀山に於いて死去した。

松平信直 まつだいらのぶなお
1732~1786(享保17~天明6)、幼名豊五郎、又七郎、従五位下、佐渡守、紀伊守、主計頭
丹波亀山5万石

先代信岑の弟庸倫(つねとも)の長男として生まれ、寛保2年(1742年)に信岑の養子となった。宝暦13年(1763年)に養父信岑死去により32歳で家督を継いだ。
天明元年(1781年)閏5月27日に致仕して、長子信道に家督を譲り、主計頭となり双峰と号した。天明6年10月10日55歳で死去した。

松平信道 まつだいらのぶみち
1762~1791(宝暦12~寛政3)、幼名又七郎、従五位下、采女正、若狭守、紀伊守
丹波亀山5万石

先代信直の長男として生まれ、天明元年(1781年)閏5月27日に信直致仕により家督を譲られ、20歳で丹波亀山藩主となった。
天明8年(1788年)京の大火に際しては二条城、禁裏を警固、その功により禁裏御所方警衛役となった。同年4月奏者番兼寺社奉行見習、6月兼寺社奉行となり老中松平定信の側近となった。
藩政では寛政元年(1789年)に領中刑律89条を定めた。寛政3年8月18日に30歳で没した。

松平信彰 まつだいらのぶたか
1782~1802(天明2~享和2)、幼名金次郎、従五位下、紀伊守
丹波亀山5万石

先代信道の長男として亀山に生まれ、寛政3年(1791年)父信道死去により家督を継いだが、享和2年9月21日にわずか21歳で死去した。

松平信志 まつだいらのぶゆき
1785~1816(天明5~文化13)、幼名喜内、又七郎、従五位下、紀伊守
丹波亀山5万石

形原松平家の分家で旗本の松平庸孝(つねたか)の長男として生まれた。先代信彰の養子となり享和2年(1802年)11月19日に18歳で家督を相続した。文化13年(1816年)4月15日に32歳で死去した。

松平信豪 まつだいらのぶひで
1800~1865(文化11~慶応元)、幼名英之助、従五位下、紀伊守、図書頭
丹波亀山5万石

先代信志の七男として生まれ、文化13年(1816年)信志の死去により家督を相続したが、わずか4歳であったために外戚松平定信(伊予大洲藩主加藤泰侯の女が定信の養女となり、信志の正室となった)が後見した。
家老奥平広胖により藩財政再建を行った。また、学問好きで藩士や領民の教育に尽力し、藩校邁訓堂の拡張を行った。
天保14年(1843年)2月9日に養子信義に家督を譲り隠居、慶応元年10月19日に51歳で死去した。

松平信義 まつだいらのぶよし
1824~1866(文政7~慶応2)、幼名友三郎、従五位下、従四位下、但馬守、紀伊守、豊前守、侍従
丹波亀山5万石

先代信豪の長男として生まれ、天保14年(1843年)2月に父信豪が隠居したため襲封した。弘化3年(1846年)6月奏者番、のちに寺社奉行兼帯、さらに安政5年(1858年)12月に大坂城代となった。
万延元年(1860年)12月に老中に就任し外国御用取扱となり、生麦事件や薩英戦争処理にあたった。
先代信豪が井伊直弼の姻戚であったこともあって安政の大獄にも関与した。このために水戸藩浪士らの標的であり、暗殺目標にもなったが、暗殺は未遂に終わっている。
文久3年(1863年)9月に老中を辞任し、慶応2年(1866年)正月26日に養子信正に家督を譲り隠居したが、3日後の同月29日に43歳で死去した。

松平信正 まつだいらのぶまさ
1852~1909(寛永5~明治42)、従五位下、図書頭
丹波亀山5万石

先々代信豪の七男として生まれ、先代信義の養子となり、慶応2年(1866年)正月に信義から家督を譲られた。
当初は佐幕派であったが、慶応4年(1868年)に山陰道鎮撫総督西園寺公望が新政府軍を率いて亀山に接近すると恭順し、新政府軍としてに東征に参加した。
明治2年(1869年)版籍奉還して亀山藩知事となるが、伊勢亀山との混同を避けて亀岡と改称、明治4年(1871年)に廃藩置県により免職となった。貴族院議員などを経て明治42年10月28日に58歳で卒した。

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