歴史の勉強
(五井)

五井(ごい)松平家は、松平信光の七男忠景が三河国宝飯郡五井郷を領したことに始まるとされるが、祖は正則という説もある。いずれにしろ忠景、正則ともその事績は不詳である。
二代についても正則の嫡子光則とするものと、忠景の嫡子元心(もとむね)とするものがあり、これも不詳である。
三代信長、四代忠次が広忠に、五代景忠が家康に仕えて功を挙げ、その子の六代伊昌は家康の関東移封に伴い、下総国印旛郡内で2千石を与えられ旗本となった。
さらに伊昌の子の忠実のときの寛永4年(1627年)に領地を下総国海上郡に移されて4千石を加増され、以後交代寄合として明治に至った。

松平元心 まつだいらもとむね
1481~1562(文明13~永禄5)、幼名弥九郎

五井松平家の祖忠景の嫡男として五井城生まれ、通称を太郎左衛門、本名を長勝という。
松平宗家五代の長親に仕え、三河国額田郡深溝城主大庭朝満を攻め、その功によって深溝城を与えられた。元心は弟の忠定に深溝城を与え、忠定は深溝松平家の祖となった。永禄5年7月26日に82歳で没したとされる。

松平信長 まつだいらのぶなが
1503~1551(文亀3~天文20)、幼名弥九郎

先代元心の嫡子として五井に生まれた。宗家七代清康に仕えていたが、清康が尾張国守山で横死すると、八代広忠に従った。
桜井松平信定が広忠に叛旗を翻すと、広忠を守って岡崎城を脱出し、伊勢国神戸の義理の叔父東条吉良持広頼り、その後も遠江国掛塚、三河国形原、三河国吉良荘牟呂城と移る。
今川義元の後援と桜井松平氏の不人気により、天文6年(1536年)6月に広忠とともに岡崎復帰を果たす。
天文18年(1549年)に広忠が暗殺されて松平領は今川氏の支配下に置かれ、その2年後の天文20年6月18日に49歳で死去した。

松平忠次 まつだいらただつぐ
1521~1547(大永元~天文16)、幼名弥九郎

先代信長の嫡子として五井に生まれ、広忠に仕えて、天文9年(1540年)の尾張の織田信秀による安祥城攻撃や天文14年(1545年)の清田畷の戦いで軍功を挙げた。
天文16年(1547年)に広忠に反抗していた三木松平信孝が岡崎城攻撃を企てたが、忠次はこの戦いにより戦死した。

松平景忠 まつだいらかげただ
1542~1593(天文11~文禄2)、幼名弥九郎

先代忠次の嫡男で、父忠次が天文16年(1547年)に戦死したために家督を継いだが、わずか6歳であり叔父(忠次弟)信次が後見した。
家康に仕えて永禄3年(1560年)5月の丸根砦攻めに功を挙げ、翌年からの三河一向一揆の際には家康に属して活躍した。
元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いなどでも戦功を挙げ、天正3年(1575年)の武田勝頼の長篠城攻めでは籠城軍に加わって城を死守した。
また、天正12年(1584年)4月、小牧・長久手の戦いで秀吉方の池田恒興の陣に突入して功を立てた。文禄元年以降、文禄の役で肥前名護屋に出陣した家康に従ったが、翌文禄2年6月3日に肥前名護屋で52歳で死去。

松平伊昌 まつだいらこれまさ
1560~1601(永禄3~慶長6)、幼名弥三郎

先代景忠の嫡男で、天正3年(1575年)の武田勝頼の長篠城攻めでは父伊昌とともに籠城軍に加わって城を死守した。
天正12年(1584年)4月、小牧・長久手の戦い、天正18年(1590年)小田原攻めに出陣、家康の関東入部の際に下総国印旛郡内に2千石を与えられる。
その後も九戸政実の乱に出陣し、家康に従って肥前名護屋にも赴いた。関ヶ原役後に伏見城番となるが慶長6年9月8日に伏見において42歳で死去した。

松平忠実 まつだいらただざね
1585~1652(天正13~承応元)、幼名弥三郎

先代伊昌の嫡男で、慶長3年(1598年)に元服して秀忠より一字を賜り忠実と名乗る。慶長5年(1600年)の関ヶ原役には父伊昌に代って出陣し、慶長13年(1608年)1月に従五位下土佐守に叙任された。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では大和郡山城守備、翌年の夏の陣では伏見城守備、寛永4年(1627年)11月に4千石を加増の上、下総国海上郡内に転封、都合6千石となる。これ以後五井松平家は交代寄合として明治維新に至る。
忠実は承応元年8月23日に京二条城において68歳で死去した。

松平伊耀 まつだいらこれてる
1604~1674(慶長4~延宝2)

先代忠実の嫡男で、承応2年(1653年)に大番頭となった。寛文9年(1669年)2月25日に致仕して家督を忠益に譲り、延宝2年11月22日に71歳で死去した。
家督は忠益-忠朝-忠根-忠寄-忠命-忠元-邦之助-忠凱-弘之助と継承された。

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