歴史の勉強
(深溝)

深溝(ふこうず)松平家の祖は、五井松平家始祖の忠景の二男の忠定である。忠定は兄元心とともに三河国額田郡深溝城主大庭次郎左衛門尉朝満を滅ぼし、松平宗家五代長親から深溝城を与えられたが、忠定の事績は不詳で享禄4年(1531年)6月9日に没したとされる。
忠定から好景-伊忠と続き代々松平宗家に忠誠を尽くす。伊忠の跡を継いだのが、家忠日記で有名な家忠で、家康の関東移封のときに武蔵国内で1万石を与えられて忍城主となった。
さらに文禄元年(1592年)2月に下総国上代、同3年1月に下総国小見川に転封され、関ヶ原役の際には伏見城攻防戦で鳥居元忠とともに籠城軍を指揮して戦死、その戦功もあって子の忠利は2万石加増され三河吉田3万石となる。
忠利の次の忠房は三河刈谷(3万石)、丹波福知山(4万5千石)、肥前島原(6万5千石)と転封を重ね、その子孫は一時下野宇都宮に移されたが、明治維新は島原で迎えた。

松平好景 まつだいらよしかげ
1518~1561(永正15~永禄4)、幼名又八郎

深溝松平家の祖忠定の嫡子で、大胆で計略に富んでいたとされる。永禄3年(1560年)桶狭間で今川義元が戦死し、今川方として参陣していた家康が退陣する際に殿軍となり、多くの犠牲者を出した。
翌永禄4年4月に三河国上野城をめぐる戦いで、吉良義昭軍と激戦になり善明堤で戦死した。なお、好景は史書にも通じ和歌も嗜んだという。

松平伊忠 まつだいらこれただ
1537~1575(天文6~天正3)、幼名又八郎

先代好景の嫡子として生まれ、通称は主殿助。永禄4年(1561年)父好景が戦死し、家督を継いだ。三河一向一揆の際には家康に従い、家康に叛旗を翻した60余名を説得して復帰させた。
永禄7年(1564年)吉田城攻め、永禄12年(1569年)掛川城攻め、元亀元年(1570年)姉川の戦い、元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いなどでも活躍し、戦略家としても知られた。
天正3年5月に長篠の戦いの際の鳶巣山夜襲で戦死した。

松平家忠 まつだいらいえただ
1555~1600(弘治元~慶長5)、幼名又八郎
下総上代1万石→下総小見川1万石

先代伊忠の嫡子として三河国深溝で生まれる。幼少より家康に仕え、酒井忠次の与力となった。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは、父伊忠とともに鳶巣山を夜襲したが、伊忠が戦死したため家忠が家督を継いだ。
家督後は遠江二俣城攻め、掛川城攻め、駿河田中城攻め、遠江高天神城攻め、甲州攻めなどに参陣、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは各地に転戦し功を挙げた。
天正18年(1590年)の小田原征伐でも功を挙げ、家康の関東入りによって武蔵埼玉郡内で1万石を与えられた。
入封後に荒廃した忍城の修復と城下の整備にあたったが、文禄元年(1592年)2月に下総上代に転封され、さらに翌文禄3年1月に下総小見川に移された。
慶長4年(1599年)に伏見城守備となり、翌慶長5年(1600年)の家康による会津上杉征伐の際には鳥居元忠、内藤家長、松平(大給)近正らとともに伏見城を守った。
同年7月に石田三成は大坂で挙兵し、伏見城に降伏を勧告するが元忠、家忠らは拒否し、その結果西軍に包囲され、奮戦の後に自刃した。慶長5年8月1日のことで、家忠は46歳であった。
なお、家忠は文化人で家忠日記には戦の記述のほか数多くの連歌、俳諧が載せられている。また浜松城、諏訪原城、横須賀城、高天神城などの普請にも携わり、土木、築城に長けていた。

松平忠利 まつだいらただとし
1582~1632(天正10~寛永9)、幼名又八郎、従五位下、主殿頭
下総小見川1万石→三河深溝1万石→三河吉田3万石

先代家忠の嫡子として三河深溝で生まれる。元服の際に秀忠より一字を賜り、最初は忠俊と名乗った。慶長4年(1599年)に父家忠が伏見城守備となったために下総小見川の所領を守る。
慶長5年(1600年)の関ヶ原役では常陸の佐竹義宣に備えて小見川を守備し、翌慶長6年三河深溝1万石に移されて深溝藩を立藩した。父祖の地の深溝転封は忠利の希望であったという。
慶長8年(1603年)彦根城普請手伝い、慶長12年(1607年)駿府城石垣普請、慶長15年(1610年)名古屋城普請手伝いなどのほか富士川、矢作川など河川工事も手伝い、父譲りの土木の才を発揮した。
慶長17年(1612年)に父祖三代の功により、2万石を加増され三河吉田に転封となった。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌元和元年の夏の陣でも戦功を挙げ、寛永9年6月5日に吉田において51歳で没した。
忠利は父家忠同様に風雅を好み、連歌に優れていたという。

松平忠房 まつだいらただふさ
1619~1700(元和5~元禄13)、幼名五郎八、従五位下、主殿頭、従四位下
三河吉田3万石→三河刈谷3万石→丹波福知山4万5千9百石→肥前島原6万5千9百石

先代忠利の長子として吉田で生まれた。寛永9年(1632年)に父忠利が死去し、同年8月11日に家督を許された。
襲封時にはまだ14歳であったために、幼少の故を持って翌12日に三河刈谷に転封となった。大坂加番、駿府加番などをつとめ、慶安元年(1648年)には大樹寺での松平広忠百回忌の勤番を命じられた。
翌慶安2年2月28日に1万5千9百石を加増され丹波福知山に転封となった。福知山は前藩主稲葉紀通の失政による混乱、さらに紀通の自害による廃絶により領内荒廃していたが、忠房は入封後人心の掌握鎮撫、検地、寺社の保護などにつとめた。
自ら領内を巡視し、訴訟を裁き、信賞必罰を徹底したので治世20年の間に領民は忠房に心服したという。
これら治世の手腕を認められて寛文9年(1669年)6月に2万石の加増を得て、当時もっとも難治とされた肥前島原に移された。
島原は高力氏の改易ののち1年4ヶ月間にわたり天領であり、そのために入封後に領内総検地を行い、農村振興策と寺社の保護など基本政策を実施して民心の安定に勤めた。
また御厩を設置して島原馬の基礎を作り、教学にも熱心であった。長崎警備役を勤め、寛文12年(1635年)にはその御用領として肥後天草郡千3百石を預けられた。
元禄11年(1698年)4月18日に養子忠雄に家督を譲り隠居し、元禄13年10月1日に82歳で死去した。

松平忠雄 まつだいらただお
1673~1736(延宝元~元文元)、幼名甚之允、従五位下、阿波守、主殿頭、従四位下
肥前島原6万5千9百石

深溝松平家の一族である松平伊行の二男として生まれ、貞享3年(1686年)7月に忠房の養子となり、元禄11年(1698年)4月忠房の隠居により家督を継いだ。
襲封後は先代忠房の路線を継承したが、貨幣経済の発達と元禄15年(1702年)及び翌元禄16年の台風により藩財政は急速に悪化した。
一方で元禄末期から従来の門閥層以外からの重臣への登用や昇進が行われ、譜代重臣層とのあいだに対立を生み、殺害事件や訴訟が起きた。
享保10年(1725年)から大火や風水害、蝗害、旱害などにより藩財政はさらに悪化したために、黒川政勝を登用して側用人とし財政再建を進めたが、黒川はやがて藩政を牛耳って放縦な生活をする。
このようななか、享保15年(1730年)には百姓一揆が起きて、南有馬村の百姓50人余りが薩摩領に逃散した。
享保17年(1732年)には減収3万石といわれる大蝗害、翌享保18年にも蝗害が起き、さらに享保20年(1735年)には領内に悪疫が流行した。
忠雄は心労が重なり同年12月2日に隠居して養子忠俔に家督を譲り、元文元年2月7日に64歳で死去した。

松平忠俔 まつだいらただみ
1711~1738(正徳元~元文3)、幼名芳喬、従五位下、主殿頭
肥前島原6万5千9百石

深溝松平家の一族である松平次章の四男として生まれる。先代忠雄の男子3人はいずれも早世したために、次章の二男忠救が養子となったが、忠救も享保19年(1734年)に没し、翌享保20年に改めて忠俔が養子となった。
忠俔は最初忠長と称し、享保20年12月に忠雄が隠居したために家督を継いだ。元文2年(1737年)9月に忠俔と改名している。
襲封直後に家臣による黒川政勝弾劾運動が起き、元文元年(1736年)12月に政勝を死罪とし、その与党を処分した。
翌元文2年に天草や長崎を巡視し、家臣への貸銀貸米を免除した。生来、病弱であり参勤の矢先の元文3年2月29日に吐血し、同年3月21日に28歳の若さで死亡した。

松平忠刻 まつだいらただとき
1716~1749(享保元~寛延2)、幼名八十郎、従五位下、主殿頭
肥前島原6万5千9百石

深溝松平家の一族である松平勘敬の長子として生まれ、元文3年(1738年)3月15日に先代藩主忠俔の養子となり、同月21日の忠俔の病死により家督を継いだ。
襲封後、黒川政勝改易の収拾と綱紀の粛正に重点的に取り組み、規律を厳正にし質素倹約を励行させた。
一方で悪化する財政に対処するために殖産振興策として櫨の木の植林を奨励し学問の振興を図った。
延享4年(1747年)に奏者番となったが、その2年後の寛延2年に参勤の途次病となり、同年5月10日に34歳で死去した。

松平忠祇 まつだいらただまさ
1735~1801(享保20~享和元)、幼名吉十郎、従五位下、主殿頭、大炊頭
肥前島原6万5千9百石→下野宇都宮6万5千9百石

先代忠刻の長男として生まれ、寛延2年(1749年)に父忠刻が急死したために15歳で家督を継いだ。若年を理由に同年7月23日に下野宇都宮に転封となった。
生来、病弱であり宝暦12年(1762年)7月に致仕を願い、同年9月晦日に弟忠恕に家督を譲り隠居し、享和元年9月14日に65歳で死去した。

松平忠恕 まつだいらただひろ
1740~1792(元文5~寛政4)、幼名八十之助、従五位下、主殿頭、大和守、飛騨守
下野宇都宮6万5千9百石→肥前島原6万5千9百石

先々代忠刻の二男で、宝暦12年(1762年)7月に先代藩主で兄の忠祇の養子となり、同年9月に忠祇が隠居し家督を譲られる。
明和3年(1766年)8月、台風による洪水で大きな被害を受け、翌9月には領民による騒擾が起きた。
安永3年(1774年)6月8日に旧領肥前島原に転封となり、転封費用が悪化していた藩財政を更に圧迫した。
安永5年(1776年)藩札を発行し、また特産品の櫨の木の専売制を実施するなど藩政改革に乗り出した。
しかし安永6年(1777年)に台風、翌安永7年にも台風、天明3年(1763年)には大火、翌天明4年台風など災害が多発したうえ、寛政4年(1792年)4月には眉山が大噴火し約1万人が死亡、城下は壊滅的な被害を受けた。
幕府より借金を受けて復興に乗り出したが、同年4月27日に心労がたたり避難先の守山村で急死、53歳であった。藩では災害復旧のために喪を秘し、5月14日に死去を届け出た。

松平忠馮 まつだいらただより
1771~1819(明和8~文政2)、幼名秀太郎、又八郎、従五位下、主計頭、主殿頭
肥前島原6万5千9百石

先代忠恕の六男として生まれ、兄達が他家への養子となったり早世したりしたために嗣子となり、寛政4年(1792年)に忠恕が死去したために襲封した。
同年4月の眉山の噴火による災害復旧と慢性的な財政窮乏対策が大きな課題であった。倹約令や奢侈禁止令の発布、家臣削減、殖産振興策としての生蝋の専売強化、明礬の生産奨励などのほかに教育にも力を入れ藩校稽古館を開いた。
また災害を受けた神社仏閣の復興や死者供養塔を建立して人心掌握を図った。
一方、長崎では異国船が相次いで入港し、文化5年(1808年)に英国の軍艦フェートン号が長崎に不法入港したフェートン号事件も発生し、長崎警備の任にあたる島原藩としては借銀や家臣負担で防備体制を整えなければならなかった。
これらのことは町人や商人の政治関与と許すことに繋がったが、藩政の改革は一定の成果をあげた。忠馮は文政2年正月28日に49歳で死去した。

松平忠侯 まつだいらただこれ
1799~1840(寛政11~天保11)、幼名秀太郎、又八郎、従五位下、摂津守、主殿頭
肥前島原6万5千9百石

先代忠馮の四男として生まれ、文政2年(1819年)正月の忠馮の死去により家督を継いだ。忠馮から引き継いだ改革路線を推進し、廃校寸前の稽古館を再興し医学校済衆館を創設した。
一方年貢増微や特産品の専売制拡大なども行い、農村の田畑数や牛馬の数、日常生活、土質などをまとめた農村明細帳を作成した。
これらは農民の支配強化につながり天保元年(1830年)以降にたびたび一揆が起きた。天保7年(1836年)以降は不作が続き、農村の貧窮は一層の度を加えた。
天保13年(1842年)には幕命により長崎警備と沿岸警備を強化せざるを得ず、財政は悪化の一途をたどった。天保11年4月9日に宴の最中に倒れて急死した。

松平忠誠 まつだいらただなり
1824~1847(文政7~弘化4)、幼名勝次郎、又八郎、従五位下、主殿頭
肥前島原6万5千9百石

先代忠侯の二男として生まれ、天保11年(1840年)4月に父忠侯の急死により家督を継いだ。天保13年(1842年)に幕府より海防強化の厳命を受け、長崎警備強化、軍備増強、内海浚渫等を実施。
弘化元年~2年(1844~5年)にかけて長崎に蘭、英、仏の軍艦が相次いで入港し藩兵を派遣した。一方、弘化4年(1847年)に起きた天草の一揆にも藩兵を派遣した。
弘化元年に医師市川保定が西洋医学普及の為に、今村刑場で死体解剖を行い解剖図を作成している。
藩主別邸の桜茶亭に薬園を開設して医学の発展に寄与したが、弘化4年4月16日に24歳の若さで病没した。

松平忠精 まつだいらただきよ
1832~1859(天保3~安政6)、幼名岩松丸、従五位下、主殿頭
肥前島原6万5千9百石

先々代忠侯の四男として生まれ、弘化4年(1847年)に先代で兄の忠誠の養子となり、兄の死により家督を継いだ。
領内近海に外国船が頻繁に来航したために沿岸警備のさらなる強化の必要に迫られ、安政元年(1854年)に軍制改革を行い、沿岸3ヶ所に砲台を築き、大砲を鋳造した。また長崎に外国船が入港するたびに藩兵を派遣したために、軍事費が増大した。
しかも風水害や旱魃により不作が続き、このために厳しい年貢の取立てを行った。弘化4年(1847年)12月には平松かぶりと呼ばれる農民一揆が発生した。
農村では痘瘡やコレラが流行し、医師市川保定らによる種痘が実施された。安政6年に病に倒れ、同年6月28日に28歳で病没した。

松平忠淳 まつだいらただあつ
1841~1860(天保12~万延元)、幼名主馬、従五位下、主殿頭
肥前島原6万5千9百石

伊予宇和島藩主伊達宗紀の三男として生まれ、先代忠精の急養子となり、安政6年(1859年)に家督を継いだ。
しかし在封1年足らず、一度も帰国しないまま、翌万延元年6月2日に江戸において20歳の若さで急病死した。

松平忠愛 まつだいらただちか
1845~1862(弘化2~文久2)、幼名忠吉、環、従五位下、主殿頭
肥前島原6万5千9百石

一族の松平忠篤の子として生まれ、先代忠淳が急病死したために養子とし、幕府から家督相続の許しを得ることに成功した。
万延元年(1860年)にアメリカ公使館にあてられていた江戸麻布の善福寺の警備にあたる。帰国後も外国船に対する警備の為に、藩兵を派遣するなど奔走した。
文久2年4月に参勤の途中で麻疹にかかり療養、その後に江戸に入ったが、同年7月21日に18歳で死去した。

松平忠和 まつだいらただかず
1851~1917(嘉永4~大正6)、幼名余六麿、従五位下、主殿頭
肥前島原6万5千9百石

常陸水戸藩主徳川斉昭の十六男で、先代忠愛が文久2年(1862年)に急病死したために、喪を秘して養子とし、同年10月16日に相続が許された。
先代忠愛の時代よりの重点施策であった沿岸警備体制強化を引き続き行い、農兵を組織して警備にあたった。
元治元年(1864年)の第一次長州征伐、慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、藩領の豊後高田まで出兵するなど佐幕的な態度であり、藩士からは不満もあがり、一部不満分子は大和天誅組や水戸天狗党に参加した。
また慶応元年(1865年)には尊王論者が重臣を襲撃する事件も起きた。藩主忠和は、将軍慶喜の弟でもあり大政奉還まで佐幕的態度は変えなかった。
大政奉還後、戊辰戦争では新政府軍にしたがって大村藩兵とともに海路出羽久保田藩領に上陸し、奥羽各地を転戦した。
明治2年(1869年)に版籍奉還し島原藩知事、明治4年(1871年)に廃藩置県を迎えて知事を免じられた。大正6年6月8日に67歳で死去している。


松平氏の表紙に戻る
武家・大名録の表紙に戻る
歴史の勉強
Last modified -