歴史の勉強
(藤井)

松平宗家五代の長親の五男利長が、三河国碧海郡藤井郷を領したのが藤井(ふじい)松平家のはじまりである。
初代利長は広忠、家康に従って活躍したが、桶狭間の戦いで戦死し、嫡子信一が家督を継いだ。
信一もまた家康の仕えて功を挙げ、家康の関東移封の際に下総国相馬郡布川で5千石を与えられた。関ヶ原の役の後に常陸土浦3万5千石を得て大名となったが、下総古河8万石を領していた忠之のときに乱心を理由に改易された。
しかし藤井松平家は由緒ある家柄の故をもって、弟信通に特別に相続を認められ、信通は3万石をもって備中庭瀬藩主となり、後に出羽上山に転封され明治に至った。
また信一の養嗣子で、家康の異母妹を生母とする信吉の二男忠晴も大名に取り立てられ、各地を転封の後に信濃上田で定着して明治維新を迎えた。

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松平利長 まつだいらとしなが
?~1560(?~永禄3)、幼名彦四郎

松平宗家五代の長親の五男として生まれ、松平宗家八代広忠に仕えた。安祥城をめぐる織田信秀との戦いでは、籠城して戦い抜き城を死守した。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、家康に従って織田方の丸根砦を攻撃したが、5月15日に戦死し、家督は嫡子信一が継いだ。

松平信一 まつだいらのぶかず
1539~1624(天文8~寛永元)、幼名勘四郎、従五位下、伊豆守、従四位下
常陸土浦3万5千石

先代利長の嫡子として藤井で生まれた。天文18年(1549年)に今川義元に従って安祥城の攻撃に参加し初陣を飾る。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いには家康に従って、丸根砦、刈谷城を攻撃して功を挙げるが、このときの丸根砦攻めで父利長が戦死し、信一が家督を継いだ。
永禄6年(1563年)の三河一向一揆の際には家康に従って功を挙げ、永禄11年(1568年)には織田信長上洛戦の際に信長の援軍として派遣された松平軍の総大将となり、近江箕作城攻めで戦功を挙げた。
元亀元年(1570年)の姉川の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正18年(1590年)の小田原征伐など主要合戦に参陣し、家康の関東移封の際には下総国相馬郡布川で5千石を与えられた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原役では関東にあって常陸の佐竹氏を牽制し、役後は3万5千石を得て常陸土浦城主となった。
慶長7年(1602年)には佐竹氏の秋田転封により江戸崎城、水戸城を守備し、翌慶長8年12月に致仕し養嗣子信吉に家督を譲った。
隠居生活21年の後に寛永元年7月16日に丹波篠山において89歳で死去した。

松平信吉 まつだいらのぶよし
1575~1620(天正3~元和6)、幼名万千代、勘四郎、従五位下、安房守、伊豆守
常陸土浦4万石→上野高崎5万石→丹波篠山5万石

松平(桜井)忠吉の長男として生まれた。生母は家康の異父妹多劫姫であった。忠吉は嫡流の家広が幼かったために桜井松平家を継いだので、桜井家は忠吉の跡は家広が養嗣子となって桜井家を継いだ。
一方で藤井松平信一の嫡子久清も文禄元年(1592年)6月に没したために、忠吉の長男信吉が文禄2年(1593年)に信一の養子となった。
慶長7年(1602年)に常陸の佐竹氏が出羽久保田に転封されると、常陸府中城城番を勤め、また江戸崎城の守備にあたった。
それらの功により慶長7年(1602年)に5千石を与えられ、翌慶長8年に信一が隠居して家督を譲られると都合4万石となった。
慶長18年(1613年)に伏見城番、翌慶長19年の大坂冬の陣では和泉岸和田城守備ののちに平野に出陣、元和元年(1615年)の大坂夏の陣では先鋒となって功を挙げた。
藩政では城下の整備に勤め、元和3年(1617年)7月に1万石を加増されて上野高崎に転封となった。高崎在封は2年と短く、元和5年(1619年)7月には丹波篠山に転封された。
入封当時は篠山の城下は建設途上であり、信吉はその建設整備に勤めたが、生来病弱でもあり入封翌年の元和6年8月1日に46歳で死去した。

松平忠国 まつだいらただくに
1597~1659(慶長2~万治2)、幼名千熊、勘四郎、従五位下、山城守
丹波篠山5万石→播磨明石7万石

先代信吉の長男として生まれた。初名を忠勝という。元和元年(1615年)の大坂夏の陣に父信吉に従って出陣した。
元和6年(1620年)父信吉の死去により家督を継いだ。篠山城下の整備に尽力し、新田開発や掘割の開鑿に勤めたが、治世は厳格で不作の年には柿の木にまで課税したために越訴事件も起きた。
また茶の湯をはじめ和歌、俳諧も嗜んだ風流人でもあり、沢庵禅師とも親交を結んだ。
寛永元年(1624年)二条城石垣普請手伝いのほか、福知山城主の転封や改易の際に城番を2度に渡り勤める。
慶安2年(1649年)7月に2万石を加増され播磨明石に転封となった。明石では林崎の掘割工事により旱魃対策を実施した。
風流人忠国は源氏物語や平家物語ゆかりの明石を愛で、光源氏や明石入道の碑を建立したりもした。万治2年2月20日に63歳で死去した。

松平信之 まつだいらのぶゆき
1631~1686(寛永8~貞享3)、幼名次郎四郎、従五位下、日向守、従四位下
播磨明石6万5千石→大和郡山8万石→下総古河9万石

先代忠国のニ男として生まれ、万治2年(1659年)2月に父忠国の死去により襲封した。襲封の際に弟信重に5千石を分与したため、所領は6万5千石となった。
東野新町、鳥羽新田、西長池、吹上、永井、生田、漆山など新田開発を積極的に行い、柿本人麻呂を祀った人丸神社の整備など民政に尽力した。
延宝7年(1679年)6月に1万5千石を加増されて大和郡山に転封となったが、前郡山藩主本多家は12万石有していたために、城下を維持できず武家屋敷の一部を取り壊して田畑にしている。
また延宝8年(1680年)には城下が大火に見舞われ、これがために寂れたという。貞享2年(1685年)6月に老中に就任し、1万石加増され下総古河に転封となったが、翌貞享3年7月22日に56歳で病没した。
信之は明石藩主時代から陽明学者の熊沢蕃山に師事し、蕃山の庇護者でもあった。蕃山は信之が郡山へ転封された際にも従っている。
蕃山は幕府の官学である朱子学と対立し、さらに幕政批判を行ったために、信之没後に罪を問われ忠之に預けられた。

松平忠之 まつだいらただゆき
1674~1695(延宝2~元禄8)、幼名彦四郎、従五位下、日向守
下総古河8万石→改易

先代信之の長男として生まれ、貞享3年(1686年)に父信之が病没したために家督を継いだ。襲封時に弟信通に1万石を分知し8万石となった。
襲封の翌年の貞享4年(1687年)に父信之が師事した熊沢蕃山が、幕政批判により罪を問われて忠之に預けられた。
忠之は蕃山を幽閉したようであるが、父信之が師事し実績もある蕃山の扱いに苦慮したようで、それが為に乱心に至ったとされる。
元禄6年(1693年)11月25日に忠之は乱心の故をもって改易、弟信通に預けられ、元禄8年4月19日に22歳で江戸において死去した。
藤井松平家は由緒ある家柄の故をもって、弟信通に特別に相続を認められ、信通は3万石をもって備中庭瀬藩主となった。

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