歴史の勉強

山内氏と関ヶ原
長く続いた戦国の世を統一し、晩年には無謀としか言いようのない朝鮮への外征を行った、天下人豊臣秀吉が慶長3年(1598年)8月に死去すると、世の中は大きく動き始めた。
それは次の天下を狙う徳川家康と、それを阻止しようとする石田三成に代表される勢力との衝突という形に発展していく。
秀吉は農民から身を起こして天下人まで登りつめた、日本史上でも稀に見る出世頭であったが、その反面譜代の家臣はなく、親類縁者も少なかったから、信頼できる家臣団を最後まで構成できなった。
加えて子供にも恵まれず、死去したときには晩年に淀殿とのあいだにできた秀頼が唯一の子であり、後継者であった。しかし秀頼はまだ4歳でしかなく、とても天下を担える状況ではなかった。
片や徳川家康は三河の小豪族の出身であり、結束の固い家臣団は武野もうらやむほどであった。しかも三河武士は質実剛健の気風であり、実利一辺倒で、茶の湯をやるなら武道をやるという人物ばかりだから、戦争に強い。
また家康は愛妾も多く子沢山で、その子を使って親類縁者を増やし、あるいは他家との繋がりを強固にしていった。

この当時、世の中にはまだ戦国の余韻が色濃く残っている。武士が二君に見えずなどというのは天下が泰平になってからのことで、戦国期はそうではない。
頼むに足らない主君なら家臣の方で見切りをつけた。天下も同じであった。秀吉も織田氏から天下人の地位を奪っている。ただ、秀吉の不幸は先に書いたように農民から身を起こした究極の成り上り者だったために、武士の棟梁にはなれなかったことだ。
そのため秀吉は官制を利用して、関白という当時の武士から見ればあってもなくてもいいような地位について、天下人とならざるを得なかったことだ。
関白は官制上の地位だから家に与えられるものではなく、個人に与えられたものなので世襲は出来ないし、当人が死ねばそれまでだ。
武士の棟梁とは武家、つまり家の頭領であって、将軍家というように家の代表者に与えられるものなのである。家に与えられているから世襲が出来るのだ。

秀吉が死去し、武家の頭領となる資格を有する者は誰が見ても家康だった。唯一家康に対抗できそうなのは加賀の前田利家だったが、経験ではともかく実力では家康のほうが一枚も二枚も上で、それにこの当時は病人であった。
よって家康が天下人となるのは当然であるとの見方も多かったし、家康本人も重臣たちもその気であった。ただし、これは武家の頭領ならという話で、秀吉のようなやり方で統治するのなら違う。親の七光りだが、有資格者には秀頼も入る。
これが秀吉没後の混乱とやがて迎える家康対反家康勢力の衝突の背景であり、反家康勢力の代表が石田三成であった。

この衝突が軍事的な形で展開されたのが関ヶ原役であるが、秀吉死去から関ヶ原までの諸大名の動きには、面白いものも多い。
藤堂高虎のように一夜にして家康にベッタリとなり、譜代の臣よりも家康に尽くし大身代に伸し上がったもの、蜂須賀家や生駒家などのように父子が東西に分かれて戦ったもの、福島正則のように三成憎しの感情を家康に操られたもの、前田利長のように身代を維持するためにひたすら汲々としたもの、黒田如水や伊達政宗のようにドサクサまぎれに一旗挙げようとしたもの等々だが、山内一豊の動きもかなり面白い。
一豊は秀吉が死去したときは掛川5万石の小さな身代であったが、戦後土佐一国20万石(一説に24万石)の国持大名に出世した。大した働きもないのにである。これは一豊流の処世術が実を結んだ結果であった。

一豊が掛川城主となったのは、天正18年(1590年)9月のことであった。秀吉が抵抗勢力であった小田原の後北条氏を攻め滅ぼし、その余勢をかって奥羽を平定して天下を統一し、それまで東海地方に君臨した徳川家康を後北条氏滅亡後の関東に移封させた。京畿から遠ざけたのだ。
旧家康領には秀吉の腹心の大名をズラリと並べた。駿府の中村一氏、浜松の堀尾吉晴、吉田の池田輝政、岡崎の田中吉政などであり、遠州掛川の一豊もその一人であった。つまり関東の家康への牽制である。
一豊と家康の出会いがいつであったかはわからないが、一豊が秀吉の死後に家康に傾斜していくのは掛川城主であったときの家康との交流にあったとする説が多い。

即ち江戸と京の往復の際に、家康は必ず掛川領内を通過する。次の天下人を狙い、また秀吉亡きあと政権中枢にあって実質的に運営してきた家康が領内を通るのに無関心でいられるわけはなく、接待もすれば情報交換もする。
そうした過程の中で家康を知り、親しくなり、家康に傾斜していったことは間違いなかろう。例えば慶長4年(1599年)4月18日に行われた、秀吉死後に建立された豊国社の遷宮式には一豊は家康にしたがって参拝している。家康とはかなり親しくしていたからであろう。
これは東海道筋のほかの大名も、程度はともかく大筋では皆同様であり、秀吉が家康への牽制として置いた腹心たちは、関ヶ原ではことごとく家康に与することになる。

さて慶長5年(1600年)に家康に反抗ののろしをあげた会津の上杉景勝を征伐するために、家康が大軍を率いて東に向うことで関ヶ原の幕が切って落とされた。
家康が上方を留守にした隙をついて反家康方が蜂起することはある程度織り込んでの発向であった。上方情勢を睨みつつの行軍なので、速度は非常にゆっくりしている。
東海道筋の大名たちは一行を待ち受けて接待し、兵を出して征伐軍に加わった。このときの征伐軍は秀頼の許しを受けた公軍なのだから当然である。
一豊も6月24日、領内の小夜の中山で家康一行を待ち受け昼食の接待をした。家康は昼食休息の後に中山を発ち島田に宿泊し、以後宿泊を重ね7月2日に江戸に入った。

一豊は中山で家康を饗応したのち、出陣の準備を整えて7月3日に掛川を発向、小田原から直行する形で家康軍本体よりも先に宇都宮に着き、その後結城に移った。
一方、家康のほうは21日に江戸を出て、23日には小山に到着し、ここで伏見の鳥居元忠から使者が追いつき上方での石田三成らの挙兵を報せた。家康は直ちに諸将に対して小山の陣へ参会するように招集をかけた。
ここからが一豊の一世一代のドラマである。24日の夜半、一豊の妻から上方の情勢が一豊の許に届いた。いわゆる笠の緒の文である。

家康の留守を狙い石田三成はさっそく行動を開始した。家康に従軍するために居城の越前敦賀を出て会津に向う大谷吉継を、三成が自身の居城近江佐和山城に迎え、挙兵を諌める吉継を説得して謀議に加わらせたのが7月11日。翌12日には三成と吉継は毛利輝元を反家康軍の総大将にする方針を決めた。
さらに13日には三成は大坂にいる諸大名の妻女の帰国を禁止した。そこに大坂城内から三成方の増田長盛と長束正家連署による家康討伐の檄文がもたらされた。
一豊夫人はこの檄文に接すると思案の後、檄文と自ら書いた一豊宛の書状を文箱に入れ、それとは別に密書を認めて家臣の田中孫作に托した。特に密書は編笠の緒とすることを命じ、一豊の許に急行させた。

孫作は美濃で盗賊に襲われるなどして苦心して、24日の夜半に一豊の陣に着いた。既に寝についていた一豊であったが、夫人からの密使と聞いて飛び起き、孫作を面前に呼んで口上を聞き、笠の緒の密書を読んだ。
一読の後に一豊は密書を焼き捨て、文箱の紐を解かずにそのまま家康のもとに届けた。家康は一豊を迎え入れて文箱を開けると、そこには家康討伐の檄文と夫人から一豊宛の書状が入っている。
書状には「老中奉行達俄に反逆を企て、人数催促の廻文来り候程に、田中孫作に持たせ差下し候。常々の御心に候へば、申すもいかがに候へども、上様へ能々忠節遊ばされ候へ。構へて構へて我身の事、御心苦敷思召され間敷候。叶はぬせんには自害を遂げ、人手には懸り候まじ」とあった。
つまり「自分は大丈夫だから、何も心配せずに家康に忠誠を尽くせ」と言っているのだ。しかもそれが封をされたまま差し出されたのだ。家康は大感激した。

もちろん笠の緒の密書で夫人は一豊に一連の行動を献策しているのだ。だから夫人の作戦である。もちろん老獪な家康がそれを見抜けぬはずはなく、おそらく全てを見通していたのだろう。
そうであったとしても、家康にすれば一豊が家康と行動を共にすると言っているのだから満足しないわけはなく、一豊にすればこれらの行動を取ったことが重要となるのだ。
一方、大坂では諸大名の妻女を大坂城内に入れて人質とすることが決められたが、細川忠興夫人ガラシャの自害により、家康方諸将をかえって刺激しかねないとして、入城は中止された。
これより前、一豊は夫人の身を心配して、家臣の市川山城を護衛として大坂に派遣した。山城は石田方の警戒網を避けるために熱田神宮の禰宜に身を替えた。
山城は長束正家の城下の水口で捕捉されたが、山城を見知っていた番士の情けによって釈放され、無事大坂に着いた。山城の姿を見た夫人は、「もし敵が来たら自害するから山城介錯せよ」と激し、山城はそれを必死で宥めたという。

さて、小山である。7月25日に家康の招集により続々と諸将が集まり軍議が開かれた。家康の家臣はともかく、参陣している諸将は家康の家臣ではないから意見を聞かなければならない。
家康は近臣を通じて「たとえ石田方に味方しても恨みはしない」と言い、それに対して福島正則が「一同家康の味方となり三成誅滅のために戦う所存」と発言し、居並ぶ諸将も賛同したとされる。もちろん、この賛同者の中に一豊もいた。この発言も実はシナリオが出来ていて、事前に家康に意を受けた黒田長政が正則を説得して発言させたのだ。
豊臣恩顧の大名の代表格である正則の発言に一同は雪崩を打って賛成するという読みで、実際にそうなった。さらに軍議は進み「会津の景勝を攻めるか、上方の三成を討つか」となると一同は「上方の退治こそ先」と応えた。

その直後のこと一豊は「逆徒討伐のために自分の城を明け渡して兵糧を提供したい。その城に家康譜代の衆を入れ充分に利用してもらえば、留守を守る兵も逆徒討伐に廻せるので好都合だ。それに人質を出して二心なきことを誓いたい」と申し出た。
この申し出に一同は賛同し、東海道筋の大名は全員城を明け渡すことになり、直ちに誓紙を提出することになった。これによって本来家康の牽制のために置かれた東海道筋の城は一瞬にして全て家康のものとなったのだ。
一豊が戦後土佐一国の主になれたのは、この発言によるという。一豊は戦闘では犬山城攻撃や大垣城攻略などに参戦したものの、功名手柄は立て得なかった。
しかし家康は「山内一豊の忠節は木の本、その他の衆中は枝葉の如し」と言ったといわれ、軍議での発言と笠の緒の文で大国の国主の地位を手に入れたのだ。

ただし城明け渡しのアイデアは一豊のものではなく、浜松城主であった堀尾忠氏のものであった。領地も近く、また両家は似たような経歴であったので、一豊は堀尾家とは親しかったようである。
忠氏は一豊より33歳も若く、才知にも優れていて一豊は日常のことなども相談していたようである。若年であろうが、拘りなく行動するのが一豊らしいところである。
このときも馬を並べて小山の軍議に向う道すがら一豊は忠氏に意見を求め、忠氏が先のアイデアを披露したのだという。
だが軍議の席では一豊が忠氏を制して申し出を行った。ずるい話ではあるが、こういう話はタイミングが大事である。ここぞというときに、臆することなく、言い方を考えて言わなければ効果はない。
その意味で一豊は絶妙のタイミングで絶妙な言い方をした。一豊の勝ちである。軍議ののち忠氏は一豊と連れ立って帰り、そのとき「日頃の一豊の律儀と違っていて言葉もない」と大笑したそうである。

笠の緒の件では賢夫人に助けられ、城明け渡しの件では堀尾忠氏の才知を自分のものとして披露し、この2つのことで家康に高評価を受けた一豊であるが、それは常日頃の愚直なまでの律儀さ真面目さがあったればこそのことであろう。
そんな夫だから夫人も何とか出世させたいと考えたし、アイデアを盗まれた忠氏も笑って許したのだろう。家康もまた一豊の律儀さ真面目さに対して土佐国を与えたのかもしれない。

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