歴史の勉強

陸奥国津軽地方を領した津軽氏の祖は為信であり、為信は始め大浦為信と称し、のちに津軽を姓とした。知られているように津軽氏は隣接する南部氏との仲が悪く、江戸後期には南部家家臣による津軽家当主の暗殺未遂事件(相馬大作事件)も起こるほどであった。
津軽氏と南部氏の仲が悪いのは、もともと南部家の家臣であった為信が、南部のお家騒動の混乱に乗じて南部領であった津軽地方を押領し、中央政権に取り入ってそれを既成事実化したからであるとする。南部家からすれば主家に仇なす逆臣ということである。
これに対し津軽家側では為信は藤原氏であり、近衛家の縁戚であると主張し、江戸期の公式な系図にもそのように記載している。しかし、現代では津軽氏の主張は残念ながらたんなる創作とされており、その出自は南部氏からわかれたものであることは間違いないとされている。
いずれにしろ為信に始まる津軽氏は、江戸期には弘前藩主として12代に渡って続き北辺の地を支配した。弘前藩は4万7千石が表高であったが、早くから新田開発に取り組み30万石を越える内高を誇った。しかし、寒冷地のために豊凶の差がはなはだしく、また江戸後期には蝦夷地警備に動員されて、そのため常に財政は苦しかった。
蝦夷地警備の功績で文化5年(1808年)には10万石に高直りしたが、封地はそのままであったので、単純に負担だけが増え財政難に拍車をかけた。

津軽氏の出自と近世大名化
  津軽氏の出自について
  津軽為信の独立
  秀吉の奥州仕置と津軽氏
津軽宗家歴代当主
  (一)津軽為信
  (二)津軽信枚
  (三)津軽信義
  (四)津軽信政
  (五)津軽信寿
  (六)津軽信著
  (七)津軽信寧
  (八)津軽信明
  (九)津軽寧親
  (十)津軽信順
  (十一)津軽順承
  (十二)津軽承昭
  
弘前藩史為信から承昭まで、12代に渡る津軽氏の藩政

支藩黒石藩主歴代信枚の二男信英に始まり、八代親足の時に大名に昇格

黒石藩史

津軽氏と関ヶ原天下分け目の戦いでの津軽氏の行動は…

津軽騒動津軽氏二代を巡る御家騒動

船橋騒動三代信義の代に起きた新参家臣と譜代派の対立は御家騒動に発展

津軽氏関連年表


津軽氏略系図
(青丸数字は宗家歴代、緑丸数字は黒石津軽家歴代、黒石家三代政兕は変換不能)

参考文献:奥羽津軽一族(新人物往来社)、日本歴史叢書・弘前藩(吉川弘文館)、新編物語藩史(新人物往来社)、東北の名族興亡史(新人物往来社)、江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、武家盛衰記(南條範夫・文春文庫)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

平19.6.27…津軽氏のページを開設
平19.7.12…船橋騒動を追加
平19.8.2…津軽騒動を追加

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