歴史の勉強

津軽氏と関ヶ原
津軽氏が関ヶ原役の際にどのような行動に出たかは、現在でも諸説あって本当のところはわかっていない。

(一)津軽氏の官選史書である「津軽一統志」では、津軽為信は2千の兵を率いて徳川家康の軍に加わるべく津軽を出発、駿府で家康に拝謁した。その後国許に兵8百の増援を求め、尾崎喜蔵、板垣兵部、多田玄蕃、松野久七の四将がこれを率いて参陣するよう命じたとする。
四将のうち尾崎、板垣、多田の三将は出発を逡巡し、松野ののみが駿府に駆けつけた。松野の手兵2百に松野に共鳴した兵350が加わり総数550。
松野は為信の軍に合流し、大垣城を攻めたとされる。一方尾崎ら三将は、堀越城に引き返して反旗を翻したが、のちに金小三郎らによって討滅されたとする。
しかし、このことが記録されている文書類はほかにまったくなく、唯一通徳川秀忠からの書状があるのみである。秀忠書状は慶長5年(1600年)8月19日付のもので、上方への出兵を促す簡単なものであり、「津軽編覧日記」によれば、この書状は貞享元年(1684年)に京都商人の糸屋助右衛門から7両で購入したものである。
また関ヶ原役後の論功行賞で津軽氏には上野国新田郡大館ほかに2千石加増されたに過ぎない。これでは2千5百の軍勢を率いて大垣城攻めをしたにしては少なすぎる恩賞である。千人以下の軍勢で、しかも譜代であっても1万石程度は加増されていることから見ても、やはり少なすぎるといえる。
おそらく津軽氏が大垣城攻めに参加したとする「津軽一統志」は、先に入手した秀忠書状から書かれた創作であろうとされている。

(二)そもそも関ヶ原役のきっかけとなったのは、会津の上杉景勝の上洛拒否であった。これを口実とする徳川家康が会津討伐に踏切り、家康の東下中に上方で石田三成が挙兵したことは周知である。
会津討伐の際に奥羽の諸大名に与えられた役割は上杉包囲網の一片を担うことであった。上杉包囲網は大まかに言えば、南側を家康が、東側を伊達政宗が、西側を前田利長を大将とする北陸勢が、北側を最上義光を大将とする奥羽諸大名担当した。
南部・秋田・六郷・戸沢・本堂・横手各氏は義光の居城山形に集結し、上杉勢に備えた。しかし当然これに加わるべきであった津軽氏は山形に参陣していない。
家康側近であった中川忠重・津金胤久書状には津軽氏の名は見えず、上杉包囲陣に組み込まれていなかったのは間違いないところである。
蝦夷の松前氏がそうであったように、遠隔地であり兵数の点からももともと参加を期待されていなかったのかも知れない。

(三)「関ヶ原合戦絵図」(津軽屏風)には、家康本陣付近に卍の幟が立てられている。卍の幟を用いていたのは越後の堀氏、阿波の蜂須賀氏と津軽氏の三氏のみであった。
堀氏は関ヶ原本戦へは参陣しておらず、蜂須賀氏は家康本陣に在陣していないことはわかっており、従って家康本陣に立てられた卍の幟は津軽氏である可能性が非常に高い。
一方、津軽為信と石田三成との関係を指摘し、東軍に加わったのは津軽氏家臣のみであり、為信は京都に、嫡男信建は大坂城にいたとする説もある。
為信が秀吉に初めて拝謁した際に窓口となったのは三成であったことから。この説もまったくの虚説とは言えないであろう。

(四)これらのことから白河亨氏は、津軽為信は京都に嫡男信建は西軍として大坂城にいて、為信三男の信枚が軍勢を率いて家康本陣にいたという説を掲げている。
これを裏付けるものとして白川氏は、関ヶ原役後の論功行賞の一環として行なわれた昇叙の際、津軽信枚だけが従五位下越中守に叙任されたことを挙げている。
いってみれば津軽氏は関ヶ原の際には東西どちらが勝っても生き残れるように二股をかけたわけで、信建はその後京都に逼塞し、信枚が家督を継ぐことになる。
いずれにせよ、津軽の軍勢が少数ながらも家康本陣にいたであろうことは可能性が高く、それにより本領は安堵され、さらに上州新田郡内大館600石、安養寺300石、赤塚250石、村田400石、下枝200石、女塚250石合計2千石の加増を得、津軽家は明治維新まで続くことができた。

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