歴史の勉強

津軽氏の出自について
(一)津軽氏の出自は奥州藤原氏である。
  即ち奥州平泉藤原氏の三代秀衡の弟秀栄を祖とし、秀栄から八代目の秀則が南部氏にその領を押領された。その後を威信が継ぎ出羽金沢城に拠ったが、土民の蜂起がもとで威信は自害してしまった。そのとき威信の子元信は、南部領の下久慈に逃げ南部右京亮家信の後見を受けて育つ。
元信は先祖の地が南部氏に押領された不当を幕府に訴えるべく下久慈を出奔したが、南部氏に捕まり殺害される。この事件後南部氏に不幸が続き、元信の祟りといわれたために、南部家では元信の子光信に右京亮家信の長女を嫁して南部家の婿養子とした。
その南部光信が延徳3年(1491年)に津軽鼻和郡に土地を与えられて、大浦氏を名乗った。光信の長女阿久は、明応6年(1497年)津軽にやって来た近衛尚道に近侍し、2人の間に生まれた政信が大浦氏を継ぎ、守信、為信と継承した、というのが津軽家の主張する説である。
江戸期の「寛永諸家系図伝」でも政信を初代として守信、為信と継いでいる。江戸期、津軽家の公称系図ではこのようにしているが、これは文字通り「した」のであって、津軽氏を奥州藤原氏とするのは創作である。
なお、近世大名津軽氏の実質的な祖である為信は、早くから近衛家に接近しており、慶長年間には相当親密であったようで、系図についても慶長期には近衛家から受けていたことは、ほぼ間違いないようである。
幕府でも「寛永所家系図伝」編纂の過程で近衛家に確認をし、津軽氏系図は近衛前久の筆跡に間違いない旨の回答をしている。
このような関係から津軽家は、近衛家に対して毎年財政支援を行なっており、宝永7年(1704年)以降は、年額3百両と決められ実施されている。

(二)津軽氏の出自は久慈南部氏である。
  これは、南部氏側の主張であり、南部氏の支族久慈備前守治義二男が大浦氏の養子となったとするものである。
大浦氏の養子となり為信を名乗り、やがて大浦の当主となり、やがて津軽領を治める三戸南部氏の直参となった。その後巧みに領民を味方とし、一方では三戸南部氏の当主政信を毒殺して津軽を押領、さらに中央政権である豊臣秀吉に対して既成事実を突きつけて、押領の事実を正当化したというのである。
南部氏側の説はことさら為信を極悪人に描こうとするために、いくつかの疑問点があるようであるが、最大の疑問は為信以前のことについては、まったく無視していることである。
津軽の官選史書のうち最も古い「津軽一統志」(成立は享保16年(1731年))では、津軽御屋形様先祖次第として
初代金沢右京様、南部御屋形様御三男、津軽屋形様御先祖初めなり、南部様にては下久慈に御座されるとして以下
二代南部右京様、三代京兆様、源光信公、この殿鼻和郡を御知行、大浦へ御入部あり
四代右京亮様、源盛信公、五代右京亮様、源政信公、六代右京亮様、源為則公、為信を養子とする
とある。
藤原氏であるとする津軽氏側主張の威信がここでいう初代、つまり南部屋形様御三男となるわけで、南部一族となって源姓に転換したが、その後藤原姓に復姓したとなるのである。
現代の研究ではこの威信、つまり南部屋形様御三男は金沢右京亮家信と結論され、その実在も立証されている。よって津軽氏の藤原姓は虚説となる。

なぜ、虚説を主張したかといえば、あくまで津軽氏としては為信の行為を正当化するためには祖先の地を回復したとすることが必要であって、南部家信の孫では単なる南部家の内紛であり、宗家にたてついた逆賊となることを恐れたためではないかとされている。
一方、南部氏側も何らかの事情によって金沢家光の子家信の存在を抹殺する必要があったようである。推測では金沢城事件、前述の農民蜂起によって金沢城が攻められて城主が自害した事件に関係しているのではないかとされている。
大浦氏の祖は金沢右京亮家光、南部氏の支族であることは間違いなく、その六代溜則の養子に久慈治義二男であった為信が入ったとするのが、津軽氏の出自としてもっとも信頼性の高いものとされる。

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