歴史の勉強
 (戸田松平家)

近世大名戸田氏の祖といわれる戸田宗光は、三河国碧海郡上野村の地頭であったが、勢力を広げ応仁の乱では三河の国人領主松平氏とともに東軍(細川方)に与している。
やがて三河国では守護であった吉良氏の勢力が弱体化し、相対的に戸田氏や松平氏の勢力が伸張したが、宗光は守護大名から戦国大名化に成功した駿河の今川氏と対立し、戦死してしまう。
跡を継いだ戸田憲光はこの頃、急激に強大化してきた松平氏に与するなど勢力維持につとめたが、その孫の康光は今川義元に一門の戸田吉光が滅ぼされたことを恨み、織田氏の寝返った。
康光は今川軍に追討されて、天文16年(1547年)9月に田原城で戦死した。しかし康光の二男宣光が二連木に分家しており、宣光は今川方についたために家名は存続した。この宣光の系統が戸田家の宗家で二連木戸田家という。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで、今川氏の勢力が三河から後退すると二連木戸田家の当主忠重は家康に服属した。
永禄10年(1567年)に忠重の子の康長が、わずか6歳で戸田家の家督を継ぐと家康は、異父同母妹の久松俊勝の女松姫を養妹として康長の正室とし、同時に松平姓を下賜した。 康長は家康の関東移封の際に武蔵東方1万石を与えられた。
それ以後は下総古河、常陸笠間、上野高崎と転じ、元和3年(1617年)に信濃松本7万石となる。 子孫は播磨明石、美濃加納を経て、享保4年(1725年)に再び6万石で松本藩主となり、明治維新まで続いた。なお、戸田氏で松平姓を賜ったのは康長の系統だけである。

松平康長 まつだいらやすなが
1562~1632(永禄5~寛永9)、幼名虎千代、孫六郎、、従五位下、丹波守、従四位下
武蔵東方1万石→上野白井2万石→下総古河2万石→常陸笠間3万石→上野高崎5万石→信濃松本7万石

永禄5年に戸田忠重の嫡子として生まれ、永禄10年(1567年)に忠重が死去すると、家康から家督を許された。そのとき康長はわずかに6歳であり、家康は異父同母妹の久松俊勝の女で3歳の松姫を養妹として康長の正室とし、同時に松平姓を下賜した。これが他家への賜姓の最初である。
天正2年(1574年)に元服し、家康から一字を賜り康長と名乗り、天正8年(1580年)の高天神城攻めで初陣、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは一族を率いて功をあげた。
後北条氏滅亡後の家康の関東移封に伴って、武蔵国幡羅郡深谷領内で1万石を与えられ、東方に陣屋を構えた。関ヶ原役では大垣城攻略とその後の守備に功を挙げ、戦後1万石を加増され上野白井2万石に転封となった。
慶長7年(1602年)に下総古河2万石、慶長17年(1612年)には常陸笠間3万石加増転封された。古河では三の丸武家屋敷や城下の整備などの町の骨格を造り、笠間藩主時代は改易された小田原の大久保氏や安房の里見氏の城受取役をつとめる。
大坂の陣でも活躍し、元和2年(1616年)5月に上野高崎に5万石で転封となったが在封は1年に満たず、翌元和3年3月には信濃松本7万石に移された。
同年6月の将軍秀忠上洛に供奉し、元和9年(1623年)に榊原忠次とともに家光付きとなり、寛永3年(1626年)の家光の上洛にも従い、従四位下に叙せられた。
寛永9年(1632年)の秀忠死去後は西の丸に詰めたが、同年秋から病気になり松本に帰国、12月12日に71歳で死去した。

松平康直 まつだいらやすなお
1617~1634(元和3~寛永11)、幼名助、従五位下、佐渡守、丹波守
信濃松本7万石→播磨明石7万石

先代康長の三男として上野国高崎城で生まれ、兄忠長が寛永6年(1629年)に康長に先立って死去したために、康長の嫡子となった。寛永10年(1633年)2月25日に前年に死去した康長の遺領相続を許されたが、同年4月9日に播磨明石へ転封となった。
翌寛永11年5月12日、将軍家光の上洛の供奉を命じられて江戸に向う途中、伊勢国鈴鹿関で急逝した。年齢はわずか18歳で嗣子が無く断絶となるところ、先代康長の功績により、同年6月1日に康直の兄忠長の子の光重に家督が許された。

松平光重 まつだいらみつしげ
1622~1668(元和8~寛文8)、幼名信、孫四郎、従五位下、丹波守
播磨明石7万石→美濃加納7万石

先々代康長の二男忠長の子として生まれた。寛永11年(1634年)5月に先代康直が急逝し、嗣子がなかったために改易されるところ、幕府は康長の功績をもって同年6月1日に康直の甥の光重に家督が許した。
寛永13年(1636年)に江戸城改修の普請役をつとめ、藩内では河川改修や新田開発、橋の架け替え、神社仏閣の保護などにあたり、寛永16年(1639年)3月3日に美濃加納に転封となった。
明暦2年(1656年)大坂城番となる。藩政では五人組の整備強化等年貢増微政策を推進した。寛文8年に病になり同年7月晦日47歳で江戸で死去。

松平光永 まつだいらみつなが
1643~1705(寛永20~宝永2)、幼名幸松、孫四郎、従五位下、長門守、従四位下、丹波守
美濃加納6万石

先代光重の嫡子として美濃加納で生まれ、寛文8年(1668年)光重の病死により家督を継いだ。このとき弟光澄(のち光正)と光賢(のち光直)に各5千石を分知した。
先代光重時代からの年貢増微政策を推し進め、その取立ても比較的厳しく、領内では一揆など不穏な空気も流れたという。宝永2年2月29日に加納において63歳で没した。

松平光煕 まつだいらみつひろ
1674~1717(延宝2~享保2)、従五位下、河内守、丹波守
美濃加納6万石→山城淀6万石

先代光永氏西の長男として生まれ、宝永2年(1705年)に父光永の死去により家督を継承した。
宝永5年(1688年)禁裏の造営手伝いを命ぜられ、翌年に朝廷からその功を賞され、正徳元年(1711年)2月15日に山城淀7万石に移封され、享保2年9月4日に44歳で死去した。好学で和歌によく通じたとされる。

松平光慈 まつだいらみつちか
1712~1732(正徳2~享保17)、幼名三之助、従五位下、丹波守
山城淀6万石→志摩鳥羽6万石→信濃松本6万石

先代光煕の三男として生まれ、享保元年(1716年)光煕の弟の旗本光規の養子となったが、兄たちが相次いで死去したために光煕の嗣子となり、享保2年(1717年)に光煕が死去したことにより襲封した。
襲封と同時に志摩鳥羽に転封となり、さらに享保10年(1725年)10月18日に信濃松本に移された。聡明な人物であったとされ、その治世は朱子学にもとづく理想主義で貫かれた。
凶作のときには租税を減免し、蔵を開いて貧民救済を行うなど善政を行い、松平戸田家の英主とされたが、享保17年8月11日に21歳の若さで病死した。病篤き報に民や寺社は平癒を祈願したという。

松平光雄 まつだいらみつお
1716~1756(享保元~宝暦6)、幼名織之助、従五位下、丹波守
信濃松本6万石

先々代光煕の五男として山城淀で生まれ、享保17年(1732年)に兄光慈の養子となり、光慈の死去により家督を継承した。初名を光英といい、寛保3年(1743年)に信濃国筑摩、佐久、伊那、小県4郡159ヶ村5万3千石あまりの地を預けられた。
延享2年(1745年)家康の百三十回忌法要において馳走役をつとめる。宝暦6年11月1日に江戸において41歳で死去した。

松平光徳 まつだいらみつやす
1737~1759(元文2~宝暦9)、幼名豊松、従五位下、近江守、丹波守
信濃松本6万石

先代光雄の長男として松本で生まれ、宝暦6年(1756年)11月に父光雄の死去により家督を継いだが、在封わずか2年余りの宝暦9年正月6日に江戸において病死した。

松平光和 まつだいらみつまさ
1744~1775(延享元~安永4)、幼名唯吉、為三郎、従五位下、丹波守、伊勢守
信濃松本6万石

先々代光雄の七男で、先代光徳の弟にあたる。宝暦9年(1759年)正月に兄光徳の急養子となり、家督を継いだ。初名を光之といい宝暦9年12月に光和に改めた。
明和4年(1767年)10月奏者番となるが、安永元年(1772年)9月に病により辞任、安永3年(1774年)12月9日に家督を弟光悌に譲り隠居、翌安永4年7月24日に江戸において没す。

松平光悌 まつだいらみつよし
1754~1786(宝暦4~天明6)、幼名藤十郎、従五位下、丹波守、若狭守
信濃松本6万石

先々々代光雄の九男で、先々代光徳、先代光和の弟にあたる。兄光和の養嗣子となり、安永3年(1774年)12月9日に兄光和が隠居して家督を譲られた。初名を光受といい家督相続と同時に光悌に名を改めた。
安永5年(1776年)松本大火、天明の大飢饉などにより藩財政は逼迫の度を増し、藩士の俸禄を削減し自らも倹約に努めた。天明6年6月21日に江戸において33歳で死去した。

松平光行 まつだいらみつゆき
1769~1839(明和6~天保10)、幼名牛之助、従五位下、弾正少弼、河内守、丹波守、内膳正
信濃松本6万石

一族の旗本戸田光為の四男として生まれ、天明6年(1786年)6月に先代光悌の養子となり、光悌の死去によって襲封した。初名を光信と名乗り、寛政3年(1791年)3月に光行と名を改めた。
寛政3年に新御条目と称して光慈の享保条目を書き改めて大庄屋宛、町役人宛、惣町人宛、村役人宛、惣百姓宛、婦女宛にして配布した。
また寛政5年(1793年)には藩校崇教館を設立し藩士の教育につとめ、「弘裕斎撰語」という金言を編集した書を配布したが、一方で能舞台や什器に善美を尽くしたとする。
寛政12年(1800年)2月23日に病を理由に致仕し、家督を養嗣子光年に譲ったが、これも浪費を理由に家臣が隠居を勧めたものとされる。文政12年(1829年)8月に剃髪し竹翁と号し、天保10年12月14日に71歳で江戸において没した。

松平光年 まつだいらみつつら
1781~1837(天明元~天保8)、幼名栄松、栄次郎、従五位下、河内守、丹波守、従四位下
信濃松本6万石

先々代光悌の長男として松本で生まれ、寛政6年(1794年)2月に先代光行の養嗣子となり、寛政12年(1800年)2月に光行が隠居して家督を継いだ。初名は光壮(みつたけ)といった。
文化14年(1817年)9月に奏者番、文政11年(1828年)12月寺社奉行兼帯、天保8年2月4日に57歳で死去した。文政8年(1825年)に光慈の松本入封から100年にあたり盛大な祝典を催したが、反面同年12月には凶作がきっかけで赤蓑騒動が起き、その鎮圧にあたった。
赤蓑騒動の根本原因は、下層農民と上層農民の格差が拡大し、上層農民が反権力と結託して下層農民を圧迫したことであった。

松平光庸 まつだいらみつつね
1798~1878(寛政10~明治11)、幼名起之進、従五位下、弾正少弼、丹波守
信濃松本6万石

先々代光行の四男として生まれ、先代光年の養子となり、天保8年(1837年)2月に先代光年が死去したため家督を継いだ。
天保10年(1839年)西の丸普請手伝い、弘化元年(1844年)松本城本丸大火、翌弘化2年(1845年)10月22日に病により隠居した。光庸の代には財政改革をめぐって積極派の戸田図書らと、それに反対する林忠左衛門らの間に抗争がおきた。
戸田図書らが推し進めた、絞木綿問屋による農村の家内工業奨励策が失敗に帰すと、図書らは免職となり図書は脱藩した。図書はその後、水戸藩に潜伏しているのが発見されて捕らえられ、関係者を含めて処分されるという騒動が起きた。光庸の隠居もこの事件による懲罰ともいわれる。
嘉永6年(1853年)には剃髪し、明治11年10月4日に81歳で死去した。

松平光則 まつだいらみつひさ
1828~1892(文政11~明治25)、従五位下、弾正少弼、丹波守、従四位下
信濃松本6万石

先代光庸の二男として松本で生まれ、初名を光映と称す。兄で光庸の嗣子であった光領(みつおさ)が、光庸に先立って天保13年(1842年)5月に死去したために光庸の嗣子となり、弘化2年(1845年)10月に光庸が致仕し家督を継いだ。
文久元年(1861年)8月の和宮降嫁の際には中山道本山宿から下諏訪宿まで警固を命じられる。文久3年(1863年)から慶応元年(1865年)にかけては浦賀警衛。第二次長州征伐では広島に参陣した。
戊辰戦争では新政府軍に帰順し、越後・会津方面に転戦した。慶応4年(1868年)2月には朝命により本姓戸田に復した。版籍奉還により松本藩知事、明治2年(1869年)6月には東北出兵の戦功により3千石を下賜された。
明治4年(1871年)廃藩置県により藩知事は免職となり、明治25年12月30日に65歳で死去した。

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