歴史の勉強
丹羽長国 にわながくに
幼名:保蔵
従五位下、従四位下、越前守、左京大夫、侍従
天保5年(1834年)4月14日生、安政5年(1858年)10月11日襲封、明治37年(1904年)正月15日没
陸奥二本松10万石→二本松5万石

先代長富の長男として二本松に生まれ、安政5年(1858年)10月に父長富の隠居により家督を継いだ。
先代から引き続いての江戸湾富津砲台警備、万延元年(1860年)の二本松大火、さらに京都警備と出費が重なり藩財政は枯渇した。
さらに領内では天保の改革が事実上失敗し、武士道の退廃著しく、正論を言えば謹慎、追放、投獄などを命じられ、賄賂が公然と行われるようになった。
このような状態で二本松藩は幕末を迎えた。勤皇か佐幕かで世の各藩が揺れるなかにあって、財政破綻した二本松藩は動こうにも動けない状態であった。
人材もなくおろおろとするばかりで、日和見に終始していた。

しかし奥羽越列藩同盟が結成されると、発言すらできないほど疲弊した二本松藩も周囲の大勢に引きずられ同盟諸藩とともに幕府側に立った。
とはいえ戦費など一銭もなく、重臣たちが藩内を走りまわって強制的に戦費を調達、城内の武器庫より関ヶ原当時の武器を引っ張り出して出兵した。
洋式装備の官軍に敵うわけがなく、二本松藩は各地で負け続ける。官軍が二本松に迫った頃には、城下には兵はことごとくいなくなり、元服前の少年隊が編成され官軍にあたった。
少年隊は一人一刺を実行し、その全員が討たれた。この結果官軍は作戦変更まで余儀なくされた。その少年隊の人数は30名前後というだけで、正確にはわかっていない。

その後二本松藩は官軍に降伏、5万石減封のうえ長国は隠居謹慎を命じられた。明治元年(1868年)養嗣子長裕に家督を譲って隠居した。明治になって廃藩置県後に子爵となり明治37年(1904年)正月15日に71歳で死去した。

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