歴史の勉強
丹羽長富 にわながとみ
幼名:蕃吉・覚蔵
従五位下、従四位下、左京大夫、侍従、左少将、若狭守
享和3年(1803年)8月27日生、文化10年(1813年)11月19日襲封、慶応2年(1866年)7月3日没
陸奥二本松10万石

先代丹羽長祥の長男で、享和3年(1803年)に江戸において生まれ、文化10年(1813年)に父長祥死去により11歳で家督を継いだ。
識見を天下に謳われた家老上席丹羽貴明を中心に藩政を行なった。文武を奨励して藩校敬学館を開設し、城下に消防制度を導入した。天保4年(1833年)及び7年の凶作には越後から米を買い入れて備蓄し米価の暴騰を防いだ。
穀物の移出を禁じて、備荒法も敷いたので、この飢饉で、餓死者は出なかったという。

飢饉で餓死者は出なかったものの、藩財政が好転したわけではなく、一方では幕府の天保の改革による倹約令を推進して、反対者は投獄した。
しかし改革は農民や下層藩士にばかり倹約を強いて、上級家臣は豪奢な生活を行なったために反発を招き、改革の成果も上がらず、文政5年(1822年)には一揆が起きた。これに対し長富は出兵して鎮圧、事なきを得た。

藩主長富も藩政への情熱を次第に失い、ついには二本松城下に遊女町や芝居町を作り歓楽街にして、藩収入に当てた。武士道の退廃著しく、正論を言えば謹慎、追放、投獄などを命じられ、賄賂が公然と行われるようになった。
その後も天災や江戸大火による藩邸焼失、弘化2年(1845年)江戸城改築御用金の拠出、ペリーの来航による江戸湾富津砲台警備、安政の大地震による江戸藩邸被害などで出費が重なった。
安政5年(1858年)10月11日に病気を理由に隠居し家督を長子長国に譲り、慶応2年(1866年)7月3日、64歳で病没した。

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