歴史の勉強
丹羽長貴 にわながよし
幼名:宮松丸
従五位下、従四位下、左京大夫、加賀守、侍従
宝暦元年(1751年)5月18日生、明和4年(1767年)正月27日襲封、寛政8年(1796年)3月27日没
陸奥二本松10万石

先代高庸の嫡子として生まれ、明和3年(1766年)に父高寛の病死により家督を相続。相続直後の明和4年(1767年)4月二本松城下に大火があり、続く天明年間には長雨や冷害、旱魃などの天候不順による凶作が続き飢饉となった。このため藩内でも多くの餓死者が出た。
このため長貴は、家老成田頼綏を用い藩政改革を行い、農村人口の増加策を実施、城下郊外に窮民救済所を設けた。さらに長寿の領民を表彰した。

人口増加策としての「赤子生育法」は赤子に対する米や衣類などを支給して、間引や堕胎、捨子を防止するものであり、「生育養老法」は幼児と90歳以上の高齢者に衣服を与えるものであった。
しかし、これらは長貴の親政により行なわれたために、改革に抵抗する重臣らの抵抗にあい、重臣依包源兵衛は長貴を諌めて「お家の為、十万石のため」として刺殺したとの説がある。
刺殺が本当かどうかは別として、そのくらい抵抗が激しかったのだろう。

一方で寛政4年(1792年)5月甲州川浚いお手伝い普請、寛政6年(1794年)正月江戸藩邸焼失など幕府の公役や火災などで財政は悪化し、寛政8年(1796年)3月27日、46歳で江戸の仮藩邸で病死したとされる。

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