歴史の勉強
丹羽高庸 にわたかつね
幼名:百助
従五位下、従四位下、若狭守
享保15年(1730年)2月9日生、延享2年(1745年)5月9日襲封、明和3年(1766年)12月14日没
陸奥二本松10万石

先代高寛の嫡子として享保15年(1730年)に生まれる。延享2年(1745年)5月に父高寛の隠居に伴い家督を相続した。父の高寛が着手した藩政改革を引き継ぎ、岩井田昨非とともに改革を進めた。
だが領民や家臣の批判の高まりを知り、加えて寛延2年(1749年)に東北全域を襲った凶作によ一揆が勃発したために、ついに昨非を罷免し責任者として勘定奉行諸田兵四郎を閉門追放とした。

高庸自身もも次第に改革に対し熱意を失い、保守派の重臣を重用し、ここに改革は崩れ去った。改革は失敗したが、実際には改革により新設された税や諸制度はそのままで農民の負担は改革前よりは重くなった。
一揆は説得され鎮圧されたが、農民は返って一揆前より重い負担を背負うことになり、一揆の厳しい処分と合わせ農村の疲弊は進み、これ以降一揆を起こす力すらなくなっていった。
高庸に登用された重臣たちも、昨非討つべしと叫ぶだけで、何の対案も持ち合わせていなかった。

一方で幕府の課役が相次ぎ、享保15年(1730年)の日光廟修理、延享年間の美濃伊勢での治水工事、宝暦13年(1763年)の芝増上寺修理、安永4年(1775年)の甲斐国での治水工事などである。これらにより藩財政はさらに窮迫した。そのような状態のなかの明和3年(1766年)12月14日 37歳で病死した。

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