歴史の勉強
丹羽高寛 にわたかひろ
従五位下、従四位下、左京大夫
宝永4年(1707年)生、享保13年(1728年)6月23日襲封、明和6年(1769年)6月29日没
陸奥二本松10万石

先代秀延に子がなかったために、一族の丹羽長道の長男高寛が選ばれ、丹羽家当主となった。丹羽長道は丹羽長秀三男の長紹の家系である。
先代秀延のころから藩財政の逼迫が見られたが、高寛の代には急速に困窮化し、武士道も退廃していた。これは二本松藩だけの問題ではなかったが、高寛は家督相続後、藩財政の逼迫と士風の退廃を見て改革の必要を感じて、軍制、教育、農政など藩政全般にわたる広範囲な改革を実施した。

家老の丹羽忠亮もまた改革の必要を認めていたので、忠亮の親しかった幕府の儒学者桂山彩厳の推挙で岩井田昨非を召抱え改革の責任者に据えた。
昨非の改革は軍制、教育、農政、税制など藩政全般にわたるもので、藩主高寛、家老忠亮の後ろ盾により、重臣や家臣の反対をものともせずに、半ば強引に行われた。
しかし改革には肝心な経済振興策がなかったために農民の負担は増え、家臣の既得権は侵され、さらに後ろ盾であった家老丹羽忠亮が死去したために反対派の声が次第に大きくなっていった。

藩主高寛もしだいに熱意を失い、延享2年(1745年)5月に病気を理由に突然隠居し、家督を高庸に譲った。隠居後も20年以上生き、明和6年(1769年)6月29日に63歳で死去した。

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