歴史の勉強
丹羽秀延 にわひでのぶ
幼名:五郎三郎
従五位下、従四位下、左京大夫
元禄3年(1690年)生、元禄14年(1701年)2月3日襲封、享保13年(1728年)5月5日没
陸奥二本松10万石

丹羽長之の二男で元禄13年(1700年)父長之の病死により32歳で家督を相続した。相続時尹重と称し、享保9年(1724年)に秀延に名を改めている。

このころから比較的豊かだった藩財政が逼迫しだした。ひとつには、これといった特産品もなく米作だけに単一農業地帯では天災等の影響を受けやすく、凶作が襲って農民が疲弊していったのが原因であった。
さらに幕命による課役が度重なった。天和3年(1683年)日光山本坊造営助役、元禄16年(1703年)江戸城修理、宝永5年(1708年)東海道の災害復旧のための献金、正徳元年(1711年)朝鮮通信使接待役などである。さらに享保12年(1727年)には江戸屋敷を類焼した。

安定していた財政もたちまち底をつき、藩では凶作の対策をするにも金がなく、江戸や大坂の商人にも相手にされず、仕方なく御用金や運上金の名目で領内から調達した。
これは自然と農民の生産力を奪う結果となり、そのために収穫量は減り、さらに藩は借金を重ね、またそれが農民を疲弊させるという悪循環に陥った。
家臣に対しても早い時期から俸禄米の強制的な借上げが行われ、倹約令がさかんに出され、やがてそれは士風の退廃に繋がっていった。
藩士の間に汚職・博打・遊芸・刃傷などが絶えず、藩士の中には自分の名前すら書けないものが数多くいたという。

このような多事多難の中、秀延は享保13(1728年)年5月5日、39歳で死去した。秀延には嗣子はなく一族丹羽長道の長男高寛を嗣子とした。

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