歴史の勉強
丹羽光重 にわみつしげ
幼名:宮松丸
従五位下、従四位下、右京亮、左京大夫、侍従
元和7年(1621年)12月28日生、寛永14年(1637年)4月襲封、元禄14年(1701年)4月11日没
陸奥白河10万石→陸奥二本松10万石

丹羽長重の長男として元和7年(1621年)12月に生まれ、寛永14年(1637年)に父長重の死去に伴って家督を継いだ。
寛永20年(1643年)5月会津の加藤家が騒動により改易されたが、この時幕命により若松城受取りに出向いた。このあと同年7月陸奥二本松に転封となった。二本松は封地返上した会津の加藤明成の弟明利が3万石で分封されていたところで、本家ともども所領を失い、その跡に光重が入封した。

二本松入封後は幕府はまた二本松城(霞ヶ城)の築城を命じた。丹羽氏はまた城作りに精を出さなければならなかった。さすがに丹羽氏が長年にわたって蓄えた財宝も底をつき、二本松城は天守もなく城中には土居や板張も多かった。丹羽氏は二本松に入ったときから、既に財政難に見舞われていたのである。
さらに城下町の建設、領内支配機構の整備などを行い藩政の基礎を固めた。また算学者磯村文蔵を召抱えたが、これはのちに二本松算学とよばれる算学の基礎となった。

藩政では安達郡を渋川・杉田・玉ノ井・本宮・小浜・針道・糠沢の七組に、安積郡は郡山・大槻・片平の3組に分け代官による支配を行った。
地代官と呼ばれる代官は二本松城下で執務し、達代官が現地に赴任したが全ての組に代官所があったわけではなく、例えば安積郡の郡山・大槻・片平の三代官所は全て郡山に置かれていた。

入部初期から財政難であり、貧窮に瀕していた二本松藩では、重臣丹羽庄兵衛だけが5千石の知行地を持ち、ほかは全て知行地を持たない俸禄制であった。
丹羽庄兵衛の知行地も名目だけのもので、実際はその管理を藩で行っていて実質的には俸禄制となんら変わりはなかったようである。
初期の二本松藩は、相次ぐ城作りで底をついた財政を持ち直させるために、積極的に新田を開発した。

光重は家光・家綱の信任が厚く、その名光重も家光の光の字を賜ったものである。延宝7年(1679年)59歳で家督を嫡子長次に譲り隠居、元禄14年4月11日、81歳の高齢で没した。

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