歴史の勉強
丹羽長重 にわながしげ
幼名:鍋
従三位、加賀守、侍従、参議
元亀2年(1571年)4月18日生、天正13年(1585年)4月16日相続、寛永14年(1637年)閏3月4日没
越前北ノ庄112万石→加賀小松12万5千石→所領没収→常陸古渡1万石→常陸江戸崎2万石→陸奥棚倉5万石→陸奥白河10万石

織田信長の重臣だった丹羽長秀の子、通称五郎左衛門。丹羽長秀は、柴田勝家とともに信長家中での重鎮で、秀吉が名乗った羽柴姓も丹羽と柴田の一文字づつをとったものだという。
信長没後長重の父長秀は秀吉に与し、天正11年(1583年)の秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の合戦でも秀吉側に属した。この時長重も長秀とともに出陣している。
その功で父とは別に越前府中城を与えられたが、越前一国は長秀に与えられたから、長秀の領国の中に自身の城地を持ったことになる。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いのとき、父長秀は領内不安定を理由に出陣せず、かわりに長重が秀吉の武将として出陣した。
翌天正13年父長秀の死去によりその遺領であった越前、若狭、加賀半国を継いだ。長秀の死は一説に、織田家を簒奪した秀吉に怒り、その秀吉に騙されて片棒を担いだことを悔いて自殺したともいう。
同年に越中の佐々成政が秀吉に背き、長重は秀吉とともに成政征伐に向かった。そのおりに家中に反秀吉の動きがあったことを理由に、長重は越前を没収された。

天正14年(1586年)従四位侍従となるが、翌年の九州征伐の際に若狭の兵の軍律違反があったために若狭も没収された。
このため領地はわずか加賀半国4万石になり、羽柴松任侍従と呼ばれたが、官位ばかり高く実力は伴わなかった。
これは織田家の重臣だった中で唯一命脈を保つ丹羽家を骨抜きにするのが、秀吉の方針であったからだろう。
秀吉も長秀には恩もあって気を使ったが、子の長重には恩もなく気を使う理由もなかった。広大な所領を減らして、丹羽家の力を削いでおく必要があった。
このように嫌がれせとも見える仕打ちを受けても、長重は秀吉に忠勤を励み、小田原攻めにも参陣したほか、文禄・慶長の役では肥前名護屋に駐留した。

慶長3年(1598年)には加増され、加賀南部で12万5千石を領し小松城主となった。同時に参議に昇進し、豊臣姓を与えられて小松宰相とよばれた。
秀吉没後、豊臣家との関係が深い長重は、関ヶ原では会津征伐にも参陣せずに在国、東軍に属した前田利長と交戦した。
世に浅井畷の戦いと呼ばれる戦で、利長にすれば小松を通過するだけが目的だったのだが、長重にすれば目の前を前田の大軍が通過するのを見過ごせるはずがなく、長重側が前田の隊列を攻撃し交戦となった。
急を聞いた前田利長は小松城攻略を命じたが、長重は城内に兵を引き、前田側ももともと交戦の意思はまったくなかったので城攻めをせず戦いは1日で終った。

関ヶ原の際には国許にいて動きを見せない長秀の下には西軍からの檄文が届いており、長重も去就に迷ったが、日頃からそりの合わない隣国の前田利家が東軍についたために西軍に与したともいわれる。
長重にすれば織田家の重臣だった丹羽家と成り上がりものの前田家では格が違うと考えたかもしれない。したがって西軍に与するというよりは前田憎しで攻撃を掛け、結果的に西軍に属してしまったというのが真実に近いのかもしれない。
戦後長重は大津の家康のもとに出頭し、家康に敵意を持っていたわけではないという、それらしき弁明もしている。

しかし領地は全て没収された。長重はその後涙ぐましい謹慎生活をしている。最初は京都柴野大徳寺で、その後は鳥羽でひたすら恭順の意を示し、慶長8年(1603年)11月将軍秀忠の取り成しもあって許され、常陸古渡に1万石を新たに与えられた。
大坂の陣にも出陣し、冬の陣では鴫野の戦いで、夏の陣では若江の戦いでともに武功を挙げて、元和5年(1619年)に1万石を加増され陣屋を常陸江戸崎に移した。
さらに元和8年(1622年)にも3万石を加増され、5万石の陸奥棚倉城主となり、棚倉城の築造を行なう。この築造は幕府に命ぜられたものであり、幕府にすれば丹羽氏の財力を減じさせるものであった。

丹羽氏にはかなりの財産の蓄積があったようで、棚倉に移る際もその財産を積んだ馬が長蛇をなし数千駄に及び、そのために丹羽氏が越えた峠は千駄櫃峠と呼ばれるようになったともいう。
長重にとっては幕府の意図はわかっていても、全力を挙げて築城に励み、二心なきを示さねばならなかった。その棚倉城は2年後に完成し、同時に城下も整えられた。
この間の寛永3年(1626年)秀忠・家光の上洛に供奉し、寛永4年(1627年)には陸奥白河10万石を与えられた。

白河に入ると再び幕府は長重に城の築城を命じた。計画に1年半を費やして、寛永6年(1629年)に阿武隈川を外堀とする城普請が始まった。このほかにも城下町を整備したほか、江戸城修築、日光廟新造などのお手伝い普請も命じられて、丹羽氏の財力も底をついた。
寛永9年(1632年)に小峰城が完成し、城下町の整備も行なわれた。現在の白河の基礎はこのときの作られたといわれる。その5年後の寛永14年(1637年)閏3月4日に、67歳で死去した。

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