歴史の勉強
丹羽氏と関ヶ原
関ヶ原役当時の丹羽氏の当主は長秀の子長重であった。
本能寺の変で信長が斃れ、直後に秀吉は信長の仇明智光秀を電光石火の早業で山崎合戦で破り、織田家の重臣たちが信長死後を相談した清洲会議で有利な座を獲得して天下人への道に大きく一歩踏み出した。そのときに秀吉の強力な援護者となったのが丹羽長秀であった。
清洲会議の翌年に秀吉は、対立していた織田家の筆頭重臣柴田勝家を倒し、さらに天下人へ歩を大きく進める。このときに秀吉は長秀に報いるために勝家の旧領越前と加賀二郡を長秀に与え、丹羽家は100万石を越える領地を得た。

しかし長秀は秀吉の振る舞いを見て、だんだんと秀吉と距離を置くようになった。長秀はあくまで織田家の家臣であり、秀吉もそうであるべきと思っていたようだ。
秀吉に騙されたと感じた長秀は、秀吉からの上洛要請にも応じなかったり、小牧・長久手の戦では所領不安定を理由にして参陣しなかった。そのころから病を得、天正13年(1585年)に51歳で死去した。
一説に、織田家を簒奪した秀吉に怒り、その秀吉に騙されて片棒を担いだことを悔いて自殺したともいう。

その長秀の後を継いだのが長重である。秀吉は長秀には大いに恩があるが、子の長重には何の義理もない。このころはまだ世襲制ではなく、大名の領地は能力給的なところがあった。
だから能力のないものや発揮していないもの、能力が見極められないものは領地を削られた。有能な当主が死に後を襲ったのが幼児である場合などは領地削減の対象であった。
丹羽家もその憂き目を見た。秀吉にしてみれば丹羽家の広大な所領を減らして、力を削いでおく必要を感じたのかもしれないし、織田家の重臣だった中で唯一命脈を保つ丹羽家を骨抜きにするのが、秀吉の方針であったからだろう。

長秀が死去した天正13年(1585年)に、越中の佐々成政が秀吉に背き、長重は秀吉とともに成政征伐に向かった。そのおりに家中に反秀吉の動きがあったことを理由に、長重は越前を没収された。
翌天正14年に長重は従四位侍従となるが、その翌年の九州征伐の際に若狭の兵の軍律違反があったために、今度は若狭が没収された。
このため領地はわずか加賀半国4万石になり、羽柴松任侍従(羽柴の姓を賜っていた)と呼ばれたが、官位ばかり高く実力は伴わなかった。
このように嫌がれせとも見える仕打ちを受けても、長重は秀吉に忠勤を励み、小田原攻めにも参陣したほか、文禄・慶長の役では肥前名護屋に駐留した。

その忠勤が認められたのか、秀吉の死の直前の慶長3年(1598年)に加増され、加賀南部で12万5千石を領し小松城主となった。同時に参議に昇進し、豊臣姓を与えられて小松宰相とよばれた。
この慶長3年8月に秀吉は没した。世間がにわかに騒がしくなる。武功派と呼ばれる大名たちと吏僚派と呼ばれる石田三成らが対立し、天下を狙う徳川家康が蠢動を始めた。
家康は経験、実力とも抜きん出ており、それに対抗できるのは前田利家くらいであった。しかし利家も病魔に冒されており、それを押して家康の押さえとなっていたが、翌慶長4年3月に死去してしまう。

こうなると家康の天下を正面切って邪魔する者はほとんどいなかった。家康は秀吉の子豊臣秀頼など無視して、自身が天下人のように振舞い始めた。
家康は当時五大老の筆頭であった。五大老とは合議で政策を決める政権の意思決定機関で、家康のほか前田利家、毛利輝元、宇喜田秀家、上杉景勝であった。利家が死去するとその職務は前田家の新当主利長に引き継がれた。
秀吉の遺言によると家康は伏見にあって政務を総覧し、利家は大坂にあって秀頼を扶育するのが役目であり、利家の役目もまた利長に引き継がれた。

家康は利家が死去すると五大老たちに帰国を促した。長らくの戦陣で自領の仕置が疎かになっているので、ここらで一度帰国をされては、という訳だった。
利長も勧めによって自領の加賀に帰国した。しかし、これは秀吉の遺言に叛いて秀頼の扶育を放棄したことであった。
家康はここで行動に出る。家康に対抗しそうな大名を脅しに罹ったのだ。最初に標的にされたのが前田利長であった。慶長4年(1599年)9月7日家康は秀頼に重陽の節句の祝を述べるためと称し大坂城に入った。そこに家康暗殺計画が発覚した。首謀者は前田利長で浅野長政、大野治長、土方雄久らが家康を討とうとしているというものだった。

家康は浅野長政、大野治長、土方雄久を配流処分として、さらに加賀征伐を宣言した。前田領と境を接する長重のに戦闘準備が命ぜられた。
この報に驚いたのは前田利長だった。計画したどころか考えたこともない暗殺計画の首謀者にいつの間にかされているのだ。謀略だとわかって歯向かっても役者が違う。ここは耐えるしかない。
出家して芳春院となった、利家の妻まつは息子利長に向かい自ら家康の人質となることを申し出たという。前田家は家老横山長知を家康のもとに派遣して陳弁に勤め、芳春院を人質に出すことで家康に屈した。

その後家康は会津の上杉景勝に謀反の疑いをかける。景勝は利長とは違って家康に屈服せず、家康は会津征伐を宣言し、会津に向かった。
このとき長重は利家の軍に属して北陸筋を会津攻撃に向かうはずであった。ところが家康の留守に上方で石田三成が反家康の旗を挙げて挙兵。会津征伐は中止となり、北陸軍も編成されなかった。
ここに至り全国の諸大名は家康方の東軍か三成方の西軍に属することを迫られた。もっとも西軍の正式な大将は毛利輝元であり、大坂城に拠っていた。

北陸筋では前田家は先の事情で東軍であり、上杉と仲の悪い越後の堀家も東軍であった。加賀では大聖寺の山口宗永は西軍、また越前は北の庄20万石の青木一矩を始めとする全ての大名が西軍に与した。
越前府中には浜松の堀尾家の飛地領があったが、堀尾家は東軍であったためにここだけが東軍であった。
では長重はというと西軍に与した。秀吉にいじめられたとはいえ、豊臣に忠勤を励んできた長重が、家康に靡くことを由としなかったのかもしれない。
あるいは隣国の前田と反対の立場をとっただけかもしれない。前田はもともと織田家の軍団長を務めた丹羽家よりも格下であった。
はっきりした理由はわからないが、長重が西軍に与したことだけは事実である。

家康が会津征伐を中止して西上、北陸筋では越後の堀家は会津の上杉へ備えるために越後に在国し防備を固め、前田家は利長と弟利政が2万5千の大軍を率いて越前に向かった。
利長らが金沢を発したのは慶長5年(1600年)7月26日のことであった。この日前田軍は長重の支城である松任城を落とした。その先には長重の本拠小松城があるが、前田軍は軍議の結果小松城を素通りし、越前に攻め入って小松城を孤立させる作戦を取ることにした。
翌27日三堂山に布陣して小松城を牽制、8月1日に三堂山に備えの兵を置き、主力は木場潟の東側を通って大聖寺城に向かう。

三堂山は現在は三道山と書き寺井町になる。木場潟は現在もあって公園になっているが、このころはもっと広かったのかもしれない。丹羽軍は木場潟に船を浮かべて、前田の軍勢に鉄砲を撃ちかけたという。
前田軍は大聖寺の山口宗長・修弘父子を攻撃し、激戦となったが8月3日夕刻に城は落ち、4~5日にかけて首実検を行なった。そして予定通り国境を越えて越前に侵入したが、ここで急遽進撃を中止、金沢に引き返す。
在京していた中川光重の密書が届き、関ヶ原にて家康が三成に破れ、その後北国に向かうと書かれていたためという。また敦賀の大名大谷吉継が兵船を催し海路金沢を衝くとの報があったともいう。
いずれもデマであり、西軍の謀略であった。

前田軍は軍議を開き、慎重派の利長は一旦金沢に引き返すことにした。8月8日前田の重臣長連龍・好連父子、山崎長鏡、太田長知、奥村栄明、高山右近らが小松城の南の御幸塚(小松市今江町)に布陣し利長らの本軍を牽制した。
そして利長と利政は大聖寺を発ち一気に木場潟の東を通って三堂山城に入った。
一方御幸塚に布陣した軍は、木場潟の西を通るか東を通るかで揉めたが、小松城からの攻撃はないと見て西側を通ることにした。
8日夜半雨の中、一番山崎長鏡、二番高山右近、三番奥村栄明、四番能州勢と富田直吉、五番今枝直恒、六番太田長知と続き七番が殿軍で長連龍であった。

小松方では江口三郎衛門が城を出て浅井に兵を潜ませて様子を窺がっていた。9日早朝、前田の軍勢を見て太田長知隊と長連龍隊の間が開いているのを見て、江口は城に援軍を要請、これに接した小松城からは即座に援軍が出た。
やがて江口勢と援軍が合わさり、長勢の中間に横腹から攻撃をかけた。長勢も反撃に移るが雨で鉄砲が使えず、足場も悪くて思うようにならない。なにより長く伸びた行軍の列の中間を衝かれたのだから、体勢が悪い。
長勢は連龍・好連父子を守るのが精一杯であった。

ここで六番隊の太田長知が長勢の急を聞いて引き返し、乱戦となったが、こうなると数で勝る前田軍に利が上がる。さらに三堂山城にいた利長と利政も銃声を聞き、即座に小松城攻略にかかった。
長重は長勢との戦いを指揮していたが、三堂山の軍が動いたことを知ると、即座に軍をまとめて小松城に入った。
この戦いを浅井畷の戦いというが、双方ともに合戦を予定していたわけではなく、長重側は目の前を前田の大軍がむざむざ通過していくのを黙って見過ごすわけにはいかず、前田軍も金沢に引き返すのが目的であったから、これ以上の戦闘には発展しなかった。

この戦いで前田軍は36の首をとられ、丹羽軍も13名が戦死した。局地戦ではあったが先の大聖寺城攻撃とともに北陸の関ヶ原戦として有名である。
戦後前田家は100万石に、一方の長重は所領を没収されて謹慎となった。長重はその後赦されて大名に復帰、その子光重が二本松10万石となる。
丹羽家と前田家は江戸期仲が悪く、両家を同席させないのが慣例であった。

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