歴史の勉強
鍋島宗教 なべしまむねのり
父:鍋島宗茂、母:久世通夏女、幼名:万吉、正室:中院通紀女
従四位下、丹後守、侍従
享保3年(1718年)4月20日生、元文3年(1738年)12月9日襲封、安永9年(1780年)2月2日没
肥前佐賀35万7036石

先代宗茂の嫡男で、元文3年(1738年)に父宗茂が眼疾によって隠居したために家督を継いだ。享保9年(1724年)に焼失した城下鳩森稲荷を再建したり、巨勢郷修理田の山王社も再建、佐賀城東北にあった別荘向陽軒に龍造寺隆信・政家・高房の霊を勧請したりと、深く神仏に帰依し文治主義を推進した。
寛延元年(1748年)支藩の蓮池藩主直恒が諫早家の茂行と結んで老中酒井忠恭に働きかけて、宗教を隠居させて弟主膳を佐賀藩主にしよう陰謀を企む。
ことは宗教の知るところとなり、幕府にも報告され酒井忠恭は老中を罷免された。宗教も直恒を出仕停止処分とし諫早の茂行は隠居謹慎、諫早領のうち1万石を没収した。

直恒と茂行が結んだのは、直恒の妹が茂行に嫁していたためであり、その背景には小城、鹿島、蓮池の鍋島三家や諫早家など龍造寺四家が、本藩の統制下にある不満があったとされる。
諫早家では、この処分に対して重臣が協議したが恭順派と反対派に分かれて結論が出なかった。そのうちに騒ぎは領民の間に広まってしまう。
これは諫早領の年貢が本藩よりも優遇されていたためで、農民にすれば本藩領に組み入れられるということは、年貢の増微を意味する。
諫早家では1万石の上地に代えて、物成4千石を納入する妥協案を示したが、本藩はこれを認めず、ついに上地の村を具体的に指定してきた。

指定された村々の農民はこれに対して長崎奉行に訴えようとするが、これは農民側が説得に折れて中止された。なお農民と行動を共にする下級武士が80人ほどいたが、これは下級武士が農業を営んでいたからであった。
次いで農民側は日田代官所へ訴状を提出した。日田代官所は訴状を突き返したが、同時に訴状の写しを本藩に送り取締り強化を求めた。藩では諫早家の当主行孝を出頭させて、代官所への訴人の逮捕を命じた。
これを聞いた諫早領の農民は立ち上がり、諫早家大手口に押しかけて騒動となった。この場は諫早家の重臣の必死の説得で農民は解散したが、10日ほどすると再び一揆となり、農民は多良に集結した。
このときは白石鍋島家の隠居徹竜が間に入り、日田への訴人は逮捕せず、諫早領の上地は3年間のみという条件で纏めようと動いたが、農民側は条件を飲まなかった。

農民側は大坂町奉行所に上訴し、これを知った本藩では一揆の鎮圧を決定し実力行使に出た。一揆の首謀者と目された若杉春后は捕縛されて佐賀に送られ、ほかに数名の農民も逮捕された。
若杉春后を失った農民側はたちまち結束が乱れて、農民側は敗れて、上地が実行されて、諫早家行孝は蟄居、諫早家家老の諫早五郎太夫は切腹、三村惣左衛門は獄門、農民側では若杉春后ほか3名が磔となった。ほかに農民8名が死刑となり13人が追放処分となっている。
このように諫早家の領地没収に端を発した農民一揆は、農民側の敗北に終わった。
宗教の治世は文治主義が基本であったが、そのなかでこの諫早騒動は大事件として特記される。宗教は宝暦10年(1760年)11月に養子重茂に家督を譲り隠居し、安永9年(1780年)2月2日に63歳で没した。

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