歴史の勉強

鍋島氏と関ヶ原
慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉が死去すると、日本国内とくに大名たちの動きが激しくなる。権力の頂点にあった独裁者が没し、後継はわずか6歳の幼児秀頼。
秀吉は農民層出身であり一代で天下人にまで上りつめたから、家や一門や古くからの譜代衆などの股肱というものがなく、実力者の大名や子飼いの武将を上手く使い分けて権力基盤を維持してきた。
そのために秀吉自身が生きていることが権力の持続の絶対条件だったが、それがなくなれば多くの大名や武将も豊臣家に仕えるいわれはない。もちろん全部が全部そう考えたわけではなかったが、そう思うも者も多かった。
中で実力者であり野心家もあった徳川家康は、秀頼に仕える気など毛頭なく、天下人におさまりたかった。むしろ天下人になる一つの過程として秀吉に臣従し、力を蓄えてきたのだった。
だから、秀吉が死去すると天下人になるためのシナリオを描き、それに沿って動き出した。

こうなってくると、諸大名も秀吉亡き後の豊臣家に尽くすか、家康に従うかということになってくる。肥前佐賀35万7千石を実質的に治める鍋島直茂もその一人だったが、直茂はこの政局の中で迷うことなく徳川家康に従うことを選択した。
なぜ直茂が家泰を選択したのかはわからないが、
(1)直茂が秀吉に服属したのは、天正14年(1586年)正月以降と比較的あたらしいこと
(2)秀吉に服属したことによって得られたものは本領安堵であり、新たな所領は増したわけではなく、逆にその後の朝鮮出兵によって大きな負担を強いられるようになったこと
(3)したがって秀吉により滅亡から救われた恩義はあったが、それ以上のものはなく、ましてや秀頼に恩を感じるほど豊臣家との結びつきは強くなかった
(4)さらに武功派といっていい直茂は、朝鮮役では加藤清正らとともにあり、このため石田三成らの官僚武将とは対立したと考えられる
というあたりから直茂の冷徹な眼で見て家康の天下が訪れるとみたのではないだろうか。
このあたりは秀吉への服属が比較的遅かった大大名である伊達、最上あたりも同じである。島津、長曽我部も気持ちは同じであったが、遠国であったことと不運が重なり、心ならずも西軍についてしまう。

直茂は慶長4年(1599年)正月、伏見城で家康に年賀を終えたあと、家康側近の井伊直政に家康に忠誠を尽くす覚悟を述べている。
その後、直茂と勝茂の父子は家康党として働いた。特に加藤清正は朝鮮で同軍であった直茂を信頼しており、清正が家康に気持ちを寄せたのも直茂の働きかけによるところが大きいといわれている。
同年閏3月に家康の前に大きく立ちはだかっていた前田利家が死去し、その直後に石田三成が失脚した。利家は秀吉亡きあと家康に対抗できる力を持った唯一の大名であり、三成は五奉行筆頭で秀吉の側近官僚であった。
利家死去後に三成が加藤清正、福島正則らの反三成武将に襲撃されるが、三成は家康に援けを求め、家康は三成の引退と引き換えに三成を援けたのだった。
いずれにしろ、家康の前に立ちはだかっていた大きな2つの障害は取り払われた。

同年4月になると家康は諸大名を帰国させた。長年の朝鮮役のために領国の経営が思うに任せず、慰労を兼ねて暫くは領国経営に専念することというのが名目であった。
そして自身は上方にとどまって思うとおりに動き始め、10月には大坂城に乗り込んで西の丸に居ついてしまう。
直茂は帰国したが、帰国の際に事あるときは馳せ参じる旨を言上しており、伏見には子息勝茂、大坂には龍造寺高房を置いた。
10月の家康の大坂城入りを知ると直茂は上坂し、伏見から大坂に移った勝茂や高房とともに越年し慶長6年(1600年)を迎える。

関ヶ原役は慶長6年(1600年)6月、家康の会津討伐とともに始まった。前年帰国した会津の大名上杉景勝が領内で不穏な動きをし上坂命令も無視したために、謀反人として家康が討伐することとなったのである。
家康のもとに諸大名の軍勢が従う。直茂も従軍を申し出たが、家康は加藤清正とともに九州を守護せよとして帰国を命じた。
このため直茂は勝茂と龍造寺高房に兵7千余を率いさせて従軍させることにした。ちなみにこの時点ではあくまで龍造寺軍である。直茂は実質的には大名と同等の行動をし世間も大名と見ていたが、佐賀の名目上の大名家は龍造寺高房であって直茂は家宰に過ぎなかった。龍造寺から鍋島への禅譲は、まだその途中にあったのである。

6月15日、家康が会津に発向し、黒田長政も勝茂に同道するよう誘ったが、鍋島勢は出立できなかった。アクシデントがあったのである。
一つは勝茂の病であった。腫れ物と伝えられ乗馬もできないほどだったという。もう一つは兵の武具が揃わなかったためであった。破損した武具の多くを京都で修理していたというのである。
大将の腫れ物と兵士の武具不揃いとは何ともチグハグな感じであるが、やむを得ない。発向を7月上旬まで遅らせた。ところが、この間に石田三成が兵を起こし、三成の兄石田正澄が近江愛知川の関を閉じ通行を禁じてしまう。
鍋島勢は物理的に東下できなくなってしまった。このとき勝茂21歳、高房15歳で経験も浅く危機管理能力も乏しい。軍中の龍造寺一門らと協議が重ねられ、結局東下をあきらめ、軍を近江八日市まで退けた。

さらにその後の情勢を見て、大坂城に毛利輝元、宇喜多秀家が入ると西軍方につく。大坂には勝茂の母が人質となっていたことも影響したであろう。
しかし直茂ならばそれらを打ち捨てて愛知川関を破ってでも東下したに違いない。このあたり直茂と勝茂・龍造寺の思惑の違い、さらに龍造寺軍であって鍋島軍ではないことが、はからずも出ている。
直茂の考えは個人的なものに過ぎず、それは軍全体の意志とは違うこともある、つまり意志決定は直茂がいなければ勝茂が行うのではなくて、一門で協議するのだと考えられているのがよくわかる。

さて、西軍についた鍋島勢は家康の将鳥居元忠が籠る伏見城攻撃に加わり、8月1日の総攻撃では大手口を受持ってこれを破り感状を得た。
さらに伊勢方面に転戦し、伊勢松坂、安濃津両城攻略戦に参加したが、その後東軍方の伊勢長島城への備えと称して関ヶ原の6里南方の野代に布陣する。ここを動かず、関ヶ原本戦当日を迎える。
したがって関ヶ原本戦には参加しなかったが、これは直茂からの使者下村左馬助によって、直茂の本意があくまで家康の与するものであることを知った勝茂が、軍を留めたものだった。
勝茂は自刃も考えたが思いとどまり、黒田長政・井伊直政を通じて家康に謝罪し、家康は直茂の忠心に免じてこれを赦した。代りに西軍方の猛将立花宗茂の居城筑後柳河城攻めを命じた。

「川角太閤記」によれば、上杉討伐が行われ帰国が命ぜられた直茂は、帰国後ただちに尾張以東の米の買い付けを命じて要所に備え、一部を宇都宮で秀忠に献上し、会津討伐が中止されて家康が関ヶ原に向って西上すると、要所の備えた米を献上したという。これが家康の心証をよくしたらしい。
いずれにせよ勝茂は急ぎ九州に戻り、直茂とともに柳河に向う。10月19日に城外で小競り合いが始まり、20日黎明時より本格的な戦闘に入った。
汚名挽回を期す鍋島勢も必死だが、立花勢も必死であった。鍋島勢は十二段備えであったが、九段まで崩されたという。しかし兵力差がありすぎ、立花勢は柳河城に押し込められ、やがて宗茂は降伏した。
この戦いでは初志を貫いた宗茂の評判は高まったが、鍋島勢の評判は芳しくなかった。だが宗茂は改易(その後柳河10万石に返り咲く)、鍋島は家を保った。

文中、鍋島勢・鍋島軍と記したが、正しくは龍造寺勢・龍造寺軍である。龍造寺高房はその後自害して果て、やがて龍造寺より鍋島勝茂が家督を譲られ鍋島氏が正式に大名になる。

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