歴史の勉強
生駒家と関ヶ原 
秀吉の死、そして三成の挙兵

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が没すると、三中老の一人であった親正は、ほかの2人とともに五大老・五奉行の間を駆け回ることとなった。
即ち、秀吉が没するや否や、五大老筆頭であり実力者の家康は、勝手に諸大名との間で縁組を進めた。これは秀吉の遺命にも背く行為であり、重大な約束違反でもあった。
三中老が調停に走り廻ったが不調に終り、問題は大きくなって武功派と吏僚派の対立に発展し、最後は家康と五大老次席の前田利家の間で和解がなされた。
このあたり、中老は制度的には機能しなかったようであるが、これはもともと役割が抽象的な上に権限もほとんどなかったことによる。

慶長5年(1600年)になると、五大老の一人会津の上杉景勝が国許で謀反を企てているとの報に、家康は会津討伐を宣言した。親正は中老の一人として中村一氏・堀尾吉晴とともに反対したが、家康は聞く耳を持たず討伐軍を編成、大坂城内で軍議を開いた。
さらに豊臣秀頼の裁可を経て慶長5年6月15日会津に向け発向した。秀頼の許しを得たことで会津討伐は公戦となり、もはや抗うことはできず、生駒家でも一正とその子正俊を討伐軍に加えた。親正は病気と称して高松城にあった。

その後、石田三成が挙兵し、毛利輝元を総帥に西軍を旗揚げした。奉行連名で、「内府ちかいの条々」という家康弾劾文が各地に送られた。讃岐高松にいた親正のもとにも届いた。
それを見て親正は悩んだ。見てきたように親正と秀吉の関係は深い。秀吉の信任も厚く、親正もよくそれに答えてきた。今、その大恩ある豊臣家に弓引くものが現れたのだ。しかし息子は、その弓引くものの下で東征軍に加わっている。

悩む親正のもとに秀頼の名で丹後田辺城攻撃に加わるよう要請があった。丹後田辺城は細川忠興の城地で、忠興も会津討伐に向かっている。
その留守を忠興の父細川幽斎が守っていたが、幽斎は三成の挙兵を聞くと近隣の城の留守居を全て田辺城に集め籠城してしまった。とはいっても兵数はわずか5百あまり。
西軍側は丹波や播磨の諸将を中心に攻城軍を編成し、城を囲んだ。その攻囲軍への参加要請だった。
ついに親正は大恩ある豊臣家のために西軍による決心をした。東征中の一正は、その行動を自身で判断するしかなかった。親正は大坂屋敷にいた家臣大塚三正に兵を率いて田辺に向かうよう指図した。

生駒氏の関ヶ原

一方、一正はほかの諸将とともに会津に向け行軍し、下野の小山で三成挙兵の報に接した。家康主宰の評定の結果、反転西上し三成と決戦することとなった。
一正もそれに従い急ぎ東海道を西に向かい、清洲城に入り、関ヶ原の前哨戦せある岐阜城攻撃に参加、さらに本戦に臨んだ。
本戦では家康本陣の桃配山前面に陣を敷き寺沢広高らとともに遊撃隊となった。戦闘が始まると陣頭に立って士卒を叱咤し奮戦した。午後2時大勢は決し、東軍が勝利を収めた。

田辺城では細川幽斎がわずかの兵でよく防ぎ、さらに朝廷にまで手を回して寄せ手の攻撃の矛先を鈍らせた。ついに後陽成天皇の勅命で田辺は開城したが、これは関ヶ原本戦のわずか2日前のことで、攻囲軍は本戦には間に合わなかった。
東軍の勝利により、西軍に属した親正は剃髪し高野山(一説には山城国槙尾とも)に入って謹慎したが、一正の軍功により親正の行動は不問に付され、一正には1万5千石が加増された。

見てきたように生駒家では、親正と一正が父子で東西に分かれて戦った。他にも阿波の蜂須賀家や志摩の九鬼家、信濃の真田家など親子で東西に分かれた例はある。
それぞれに事情や思惑はあったのだが、世間ではどちらが勝っても家が残るようにとの、いわゆる両天秤にかけているとの見方がもっぱらだ。
しかしそれは、結果から見た一方的なものであって、生駒家の場合は純粋に恩ある豊臣家を思う親正の気持ちが行動に表されたものであり、もし一正に連絡が取れれば、即座に西軍への参加を求めたのではあるまいか。

しかし、その場合は一正が素直に従ったかどうかもわからない。一正は生来吃音であり、一説には愚鈍であったともいうが、吃音は事実としても愚鈍は虚実であろう。
まだまだ愚鈍の将に軍を引率させられるような時代ではなかったし、ましてや戦功などたてられるはずもなかった。
その一正はぶれることなく家康と行動をともにし、結果的に家を保った。一正は武功派ではなく三成に悪感情を持っていたわけではない。三成憎しで行動したのではなく、戦陣を駆けた武将の独特の感覚で雰囲気を見て、次の世は徳川と読んだのではなかろうか。

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