歴史の勉強

近世譜代大名である堀田氏は、寛政重修諸家譜において本姓を紀(き)氏としている。正重が尾張愛智郡津島に住して堀田氏を名乗ったとされる。
また、津島神社には神官の堀田氏の系図が残るといわれ、この神官堀田氏の家系から南北朝期に武士化した堀田氏が同地方で発展し、近世大名堀田氏の祖となったとも言われている。
さらに武内宿禰の32世の孫の之高が尾張中島郡堀田村に住して堀田氏を名乗ったという説もある。いずれにしても本姓紀氏というのは、まったく根拠はない。
堀田正重の子の正純は尾張斯波氏に、正純の子の正道は信長、秀吉に仕え、正貞-正秀-正吉と続くのが宗家で、正吉は織田信雄、浅野長政、小早川秀秋に仕えて小早川家が断絶した後は浪人となった。
正吉の子の正盛は母が稲葉正成と正成の先妻との間の子であったために、正成の後妻である春日局の縁で三代将軍家光に仕え老中にまで進み、下総佐倉で11万石を領した。正盛は家光に殉死し、子の正信が継ぐが改易され、その子の正休が正盛の功績で1万石を得て近江宮川に移り明治まで続く。
一方、正盛の三男正俊は将軍家綱に近侍し1万石を得、その後春日局の養子となった。正俊は五代将軍綱吉擁立に功績があり大老にまで進み、この正俊の系統が宗家と見なされるようになった。正俊の系統からは正俊三男の正高が分家し、下野佐野で明治維新を迎えている。

T.堀田宗家
近世大名堀田氏の祖である正盛の嫡流で、正盛が将軍家光に殉じたあとを正信が継いだ。しかし正信は万治3年(1660年)に幕府に意見書を提出して佐倉に無断帰国したために改易された。正信は狂疾として処理され、正盛の功績を認められて正信の子の正休が1万石を得て、近江宮川藩主として明治まで続いた。正盛〜正信の封地は下総国佐倉であり、正俊系堀田氏ものちに佐倉藩主となるために、正盛、正信の佐倉藩主時代を前期堀田氏時代と呼ぶ。
堀田宗家歴代当主

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U.正俊系堀田氏
正盛の三男正俊を祖とする。正俊は春日局の養子となり、家綱時代には老中となり五代将軍綱吉の擁立に功績があり、大老になる。しかし稲葉正休に江戸城中で刺殺され、その子の正仲が継ぐが山形に左遷された。正仲-正虎-正春-正亮と継ぎ、正亮は老中になり下総国佐倉で11万石を得た。こののち明治維新まで堀田家は佐倉藩主を勤め、この時代を後期堀田氏時代と呼ぶ。幕末期に老中となった正睦もこの家から出ている。
正俊系堀田氏歴代当主

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V.正高系堀田氏
大老となった堀田正俊が刺殺され、その子正仲が家を継いだが、相続の際に正俊三男正高が下野国内で1万石を分与されて佐野藩を立藩した。元禄11年(1898年)に近江国堅田に転封となったが、六代正敦が佐野に復帰し、正衡-正頌と家督を継承して明治を迎えた。
正高系堀田氏歴代当主

W.正英系堀田氏
正盛の四男正英を祖とする。正盛の死により5千石を分与され、のちに加増されて1万3千石を領して諸侯に列し、常陸北条藩を立藩した。しかし死去の際の相続の不手際から8千石を収公されて除封となった。
正英系堀田氏歴代当主

X.堀田氏と幕閣について〜正盛・正俊と幕閣〜

堀田氏略系図(赤数字は宗家歴代、青数字は正俊系歴代、紫数字は正高系歴代)

参考文献:新編物語藩史(新人物往来社)、江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、徳川幕閣(中公新書)、日本史諸家系図人名事典(講談社)、徳川幕閣のすべて(別冊歴史読本・新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ

平21.1.22…堀田氏のページを開設
平21.2.12…大名騒動録に堀田筑前守正俊、堀田上野介正信を追加
平21.10.3…堀田氏と幕閣についてを追加、堀田氏のページをリニューアル

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