歴史の勉強

堀氏と関ヶ原
徳川家康が天下人の地位を決定的にしたのは、関ヶ原合戦での勝利であることは異論のないところであろう。
慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉が没してから関ヶ原合戦までの2年間、全国の諸大名は去就に迷うもの、いち早く家康に乗り換える者、あくまで豊家に忠誠を尽くそうとする者、大勢を窺がう者など様々であったが、越後春日山45万石の大名堀氏の場合は特徴的な動きをした。

堀氏はもともと美濃の小土豪であったらしいが、久太郎秀政が織田信長の小姓に取り立てられたことで運が開けた家である。
一説には秀政は信長の衆道の相手であったというから、眉目秀麗であったろうが、秀政の場合はそれだけではなく頭が切れたようで行政面でも役に立ったらしい。
のちに森蘭丸が登場すると信長の寵は蘭丸に奪われて、秀政は秀吉に接近し、その側近武将となる。信長が本能寺で斃れた後も秀吉と行動をともにして、賤ヶ岳の戦、小牧・長久手の戦、四国征伐と活躍し越前北ノ庄18万石の大名となった。この時与力大名として村上義明、溝口秀勝が付けられた。
その後も九州攻め、小田原攻めに参陣したが、小田原攻めの陣中で38歳の若さで急死し、跡をまで15歳の嫡子秀治が継いだ。

秀吉の信任も厚かった秀政に比べれば秀治の才覚は劣り、秀吉も幼少を理由に北ノ庄を召し上げようとしたらしいが、堀家の重臣堀直政の強硬な抗議で相続を許されている。
慶長3年(1598年)に秀吉は越後春日山城主上杉景勝に会津転封を命じた。代って春日山には秀治が45万石で入った。この転封は、会津にあって伊達氏をはじめとする東北大名を牽制していた蒲生氏郷が急死したために蒲生家を宇都宮へ移し、会津での牽制役を上杉氏に代えるとともに、最強軍団と言われた上杉氏の力を転封で弱めることにあった。
越後には秀治の他にも一門や与力大名が入り統治した。即ち蔵王4万石に秀治の弟親良、三条5万石に重臣で天下の三陪臣の一人とうたわれた直政、坂戸5万石に直政の二男直寄、新発田6万石に与力大名の溝口秀勝、本荘9万石に同じく村上義明を置いた。

堀氏が越後に入って調べてみると、前領主上杉氏が年貢を半分会津に持ち去っていることが判明した。国替えの時には前領主は徴収した年貢を新領主に残すのが原則であった。
堀氏もこの原則によって越前からは年貢を持ってこなかったので困惑し、上杉氏に年貢の返還を要求した。これに対し上杉氏からの返事は「持ってこない方が悪い」という冷たいもので、年貢は返してもらえなかった。
このトラブルのもとは会津から宇都宮に移った蒲生氏が、年貢として収納した米を半分持って移ったことにある。これを知った上杉氏は越後から、これも半分の年貢を持って会津に行った。
ところが堀氏はこのことを知らずに越前から年貢を持ってこなかったので、あるはずの年貢の半分がないことになってしまった。また一説には直江兼続と石田三成が謀ったことともいう。
これを堀氏がどう凌いだかはわからないが、堀氏と上杉氏とは険悪な間柄になったことだけは事実である。

やがて同年8月に秀吉が死去し、上杉氏が反家康の色を鮮明にするに従い、秀治は家康に傾いていった。上杉景勝は慶長4年(1599年)に会津に帰国すると道普請をし、橋を架け、新城を築くなど大規模な工事をし、米を集め、浪人を雇った。だれがどう見ても戦の準備である。
一方越後では旧主上杉家を慕う領民がサボタージュを行い、堀氏を悩ませた。これも上杉氏の工作であった。秀治は会津の戦争準備と越後での農民煽動を家康に注進した。
さらに、慶長5年(1600年)正月に上杉家から年賀の挨拶に訪れた藤田信吉に家康は引き抜きをかけ、景勝に上洛を勧めるよう説いた。
会津に帰った信吉は家康の言葉を伝えたが、景勝や兼続が聞くはずもなく、信吉は上杉家を出奔し家康のもとに走り、上杉謀反と訴えた。

堀氏の注進と信吉の訴えにより家康はさっそく会議を開き上杉討伐を提案するが、他の大老、奉行から時期尚早と反対され、豊光寺の西笑承兌起草の質問状持たせた家康の家臣伊奈昭綱と増田長盛の家臣河村長門を詰問使として会津に派遣した。
景勝が上洛しないので家康が不審を抱き、さらに神指城の普請を始め、道や橋を整備しているのは戦の準備かと疑われている。
濡れ衣というならば起請文を提出し、早々に景勝自身が上洛して申し開きをしろというのが大意であった。

この詰問上に対する返書が有名な直江状である。直江兼続起草の書状なのでそう呼ばれ、内容は領内整備をして何が悪い、領内整備を戦の準備とはこじつけも甚だしい。
我らは都人と違い田舎者ゆえ、茶器などに凝るより武器に凝る。さらに家康を表裏のある人間であり、逆臣であるといい、文句があるなら攻めて来いと挑発した。
この中で越後への野心を問われた返事として、「久太郎をふみつぶすのに何の準備がいるか、橋など架けるにも及ばない」と堀氏を侮っている。
明らかに挑戦状だが、この直江状は後世の偽筆であると言われている。しかし家康の挑発に対し、武勇と律儀でなる上杉の考えがよくわかる文書ではある。

上杉からの返事を受けて家康は最早これまでと会津討伐を宣言し、慶長5年(1600年)6月に秀治にも前田利長の指揮下に入り津川口から会津に攻め入るように命が下る。
この命に対して堀直寄は「太閤殿下の恩に報いる為には旧怨を捨てて上杉に同心すべし」と主張したが、堀直政は「堀家は太閤のみの恩ではなく信長の恩から起ったのだ。今回の戦も秀頼公の本心ではない。家康の勝利は確実」との意見に一同は同意して家康の指示を待った。
一方、上杉側では智謀に富み忠義のある比較的低い身分の兵を選抜して浪人を装わせて越後に潜入させ一揆を起こさせる作戦に出た。
同年8月1日に一揆は奥広瀬から起こり、小倉主膳の守備する下倉城を囲み、主膳は戦死した。このとき坂戸から直寄が救援に駆けつけて一揆勢数百人を討ち取り一揆を鎮圧した。また直政は柏崎方面に出陣し一揆を鎮圧した。
これと前後して上方では石田三成が挙兵し、家康は会津討伐を中止して西方に向った。秀治ら越後勢は在国して上杉に備えることになった。上杉氏は家康の背後を突かず、北の最上領に侵攻した。
越後国内では各地で一揆が起ったが、越後勢はその一揆をことごとく鎮圧した。一揆は関ヶ原での家康勝利の報に自然消滅していった。

戦後堀氏は一揆鎮圧の功で所領を安堵され、春日山城を廃して平地の福島の地に新城の普請を開始するが、慶長11年(1606年)に秀治はその完成を待たずに30歳で死去した。10歳の嫡子忠俊が家督を相続するが、やがて家中争いが起きて堀氏は改易されてしまう。家中争いが家康の外様大名取り潰し策の格好の理由になったもので、関ヶ原のときには家康に戦の材料を提供した堀氏が、自身の取り潰しの材料を提供するという、何とも皮肉な形となった。

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